デュルケムの声を聞いて

 フランスの社会学者であるエミール・デュルケムが1925年に完成させた「道徳教育法」は、彼の晩年の著作である。この「道徳教育論」は、彼がパリ大学文学部の講義「教育の科学」を担当した際の講義案を基にして書かれた。その講義は、1902年に行われた、彼のソルボンヌでの最初の講義となった。ヨーロッパ諸国に比べて公教育が教権から分離する時期が比較的早かったフランスは、19世紀中頃から20世紀中頃まで続いた第三共和制の時代において、憲法の制定などにより、公教育と宗教の分離を制度として実現した。そのような揺れる時代の中で、デュルケムがソルボンヌの学生たちに道徳を説いたのが、講義「教育の科学」であった。その語り口のせいか、「道徳教育論」の文章からは彼の言葉が聞こえてくるようであり、その講義室に溢れんばかりの熱意を、私は感じずにはいられない。


 デュルケムはこの著作の中で、道徳というものを歴史学社会学の観点から考察し、その諸要素を明らかにしている。その詳細な考察により、彼は道徳によって人間(特に児童)に植え付けるべき道徳を示し、その目的までをも提示した。

 

 彼は、道徳性には三個の要素があるとした。第一要素として規律の精神を、第二要素として社会集団への愛着を、第三要素として意志の自律性、という具合である。これをひとつひとつ見ていきたいのだが、最初に驚くべきかつ重要な事実として、道徳とは規律の集合であるということを確認する。所属する社会によって、社会性を反映した非個人的な規律としての道徳が存在する。よって、道徳は法律に近い性格を持っているのである。しかし、法律と異なり拘束力を持たない道徳が規律として存在しうる理由は何であろうか。彼は、規律の裏には尊敬に値し個人を超越する権威が存在し、この権威によって規律としての道徳は守られるのであると考えた。社会全体が宗教に支配されていた時代には、宗教こそ道徳であり、神が権威の役割をしていた。今、宗教に頼らない道徳が誕生したのだが、その権威は何であろうかという問題が出てくる。

 デュルケムは、その権威を社会とした。社会は、個人の集合であるが、個人間の相互作用により、単なる個人の加算的集合よりも強い力を持つ集団として社会は存在している。よって、社会が権威となりうるのである。ここで、再び疑問が生じるのだが、どうして個人は社会という権威のもとに道徳という規則に従うのだろうか。一見すると、個人にはあまり利益がなく、行動や思想に制限を受けるだけに思われ、そのような規則に従うことは矛盾ではないのか。また、人はしばしば道徳性を持って自らを犠牲にすることを選択するが、これは規則としての道徳の過ぎた抑圧なのではないか。しかし、デュルケムはこの疑問にも答えることができる。彼は言う。個人の人格の形成において、抑圧ないしは禁止の能力を身につけなければ、それは幼児や原始人と同じであり、道徳はそのような人格の形成に必要な規則性を与えるのだと。個人の人格の良き部分は社会の事物の影響により育まれるため、個人の中には社会性が大きく横たわっているのだと。利己主義に走り、自己から社会性を引き剥がそうとしても、それは失敗に終わるだろうと。そして、そのような社会と自己の一体化したような愛着の状態が、時に自己犠牲という形で現れることがあるのだと。

 一見矛盾しているようであるが、この発言は的を射ている。つまり、規則としての道徳に従うことは抑圧に繋がるのではないかと一見思われるが、自己を一定の範囲内に収めることは個人の本性自身によって要求されているために、実は道徳に従わなければ従わないほど自己を破滅に追い込むことになる。また、自己犠牲にまで達するような社会への愛着は自己を放棄することに繋がるように一見思われるが、個人は社会性の享受により多くの幸福を得ているので、実は社会集団への愛着によってのみ真に個人は個人としていられるのである。それを止めれば、人はたちまち自殺に近づくことになる。これが、道徳の第二要素である。

 第三要素として意志の自律性が挙げられているが、これは第一・第二要素よりもメタな概念である。規則としての道徳への従順や社会集団への愛着を行った個人は、ふと自身の自律性が失われているのではないかと感じる。しかし、それも一見矛盾のように見えて、実はそうではない。ちょうど科学を知ることによって外部に存在する自然の一部を把握し、その知識を自己の内部に保ち理解し常に更新することによって、外部より確立された自律性を得るのと同様に、道徳の規則に従い社会集団への愛着を持つとき、個人は自己の行為の理由についてできるかぎり明確で、かつ完全な意識をもつことで、道徳を自己の内部に整理して置くことが可能となり、今後公衆の意識が道徳的なすべての存在に対して要求するであろう自律性を持つことができるのである。

 道徳とはこのように、いくつかの要素からなる。一見矛盾しているように思われて、実はそうではないという、相容れない要素を内に含むことができる道徳の豊かさと複雑さには、目を見張るものがある。社会とはひとりの人間のようなもので、その体は道徳の規則性を、その細胞は個人を、その血は個人の社会への愛着を表す。細胞が更新されようとほとんど変わらない形を残す。そして、その大きな社会という個人自体も時代の必要性に応じて常に変容してくのだ。

 よって、人間(児童)の道徳的陶冶には、教室だけではなく社会の中で道徳教育が行われるということを忘れてはいけないのである。そして、先述したような道徳の要素を彼らが得ることを目的として、道徳教育は行われるのである。


 デュルケムのこの道徳モデルには、賛同意見だけではなく多くの批判が存在する。特に道徳教育を科学的に見る視点には、議論の余地があるのかもしれない。しかし……

 

 しかし、私は、宗教という強大な権威の鎖を引きちぎらんとしたデュルケムのその熱意を感じた。彼の、体の芯から湧き上がるような声を、聞いた気がした。内容よりも、私はその声を大切にしたいと思う。

 

 中世のヨーロッパと比べれば、現在の日本は宗教から解放されている。では、現在の日本社会は、道徳性を保持するための権威となることができているのだろうか。日本では毎年2, 3万人が自殺をするのだ。

 

 義務教育の時点で、自殺の種を蒔いてしまってはいないだろうか。教育の本分は生徒の自己実現であるという教育原理の解釈が、学歴社会の影によって歪められているように感じる。受験に合格するための勉強に意味はあるのだろうか。その勉強の陰で、大事な何かがスポイルされる。愛着は失われる。生きること以上に、大切なことがあるのだろうか。選抜の過程としての学校は、社会の分業制度を成り立たせるために必要であるということは理解できる。しかしながら、そもそも社会とは構成員の幸福を目指すものではなかったのか。社会のための選抜が社会の最大の目的を阻害するという事態は、紛れもなく本末転倒である。日本社会という謎の権威が暴走している。そのことに、誰か気づいて。


 今、世界では、キーコンピテンシーが定義され、多様な価値観の受容が叫ばれている。人工知能の能力が人間を凌駕する時代に、人々は人間らしい教育原理を思い出しつつある。その中で、日本はどこへ向かうのだろうか。偽りの平和の中でいつの間にか錆びた鎖を、もう一度解かなければならない時は近い。デュルケムのあげた声を、次は私たちがあげるのである。

プレシオスの鎖

 みんながめいめい
 じぶんの神さまが
 ほんとうの神さまだと
 いうだろう


 けれどもお互
 ほかの神さまを
 信ずる人たちの
 したことでも
 涙がこぼれるだろう


 それから
 ぼくたちの心が
 いいとか
 わるいとか
 議論するだろう


 そして勝負が
 つかないだろう


 けれども
 もしおまえが
 ほんとうに
 勉強して
 実験でちゃんと
 ほんとうの考えとうその考えとを
 分けてしまえば
 その実験の方法さえ
 きまれば
 もう信仰も
 化学と同じようになる

 
 以上は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の一節です。


 宮沢賢治1924年に『銀河鉄道の夜』の執筆に着手し、1933年に37歳で病死するまで、彼はこの作品の推敲を続けました。その推敲の中で、彼は4つの稿を残しました。一般に、4つの稿うち一番最後に書かれたものが最終形と呼ばれ、それ以前に書かれた3つの稿が初期形と呼ばれています。よく知られているのは最終形のお話ですが、実は最終形と初期形でかなり話の内容が異なるのです。


 冒頭で引用したのは、初期形第3次稿の『銀河鉄道の夜』の一節です。初期形第3次稿では、銀河鉄道の旅はブルカニロ博士の実験だったということになっています。博士は、ジョバンニの協力を得て、遠くから自分の考えを人に伝える実験をしていたのでした。ですから、さきほどのセリフは、実はすべてブルカニロ博士の考えなのです。そして、これは宮沢賢治自身の考えでもあるのかもしれません。


 歴史を顧みれば、信仰の違いによって本当に残酷なことがたくさん行われてきたことが分かります。今だって、そのような惨禍が完全になくなったわけではありません。ただ、確実に少なくなりました。


 それでは、信仰による争いが少なくなった現在、「ほんとうの考えとうその考え」を完全に分けることができているかと言われれば、そんなことはありません。

 

 誰しも、価値観という名の「じぶんの神さま」を持っている。そして、それが「ほんとうの神さま」だと言う。それをもって、いいとかわるいとか議論する。そして、勝負がつかないだろう。

 

 もっとも恐ろしい神さまは、無宗教の人に宿った、自分の「実験」が正しいと信じきるような価値観、つまりは自分の価値観以外の価値観を許容しえないような価値観なのかもしれないと、ふと思う午前4時なのでありました。

 

 プレシオスの鎖は、解かれるのでしょうか。あらゆる人のいちばんの幸福を、ほんとうの幸を、ジョバンニは見つけられたのでしょうか。見つけられていたらいいな。

支え合いのコミュニティを目指して

 車の中でラジオを聴いた。エフエム秋田SCHOOL OF LOCK!だ。14歳の少女、ラジオネーム煮崩れ豆腐が電話に出た。彼女は、煮崩れ豆腐のように、ちょっとしたことでメンタルが崩れてしまうことが悩みだと語った。パーソナリティは、そんな煮崩れ豆腐が楽しいと思うことを尋ねた。彼女は、即興で歌を作って歌うことが好きだと語った。しばらくの後、車の中に、煮崩れ豆腐の歌声と、パーソナリティの「ありがとうね」という言葉と、大きな拍手と笑い声が響いた。深夜、名古屋の明るい街の中を走っている時だった。ひとりぼっちの車の中で、人間を感じた。久しぶりに、人間を感じた。

 

 人間はひとりで生きられるのだろうか。いつも考える。人間は、社会に属することで、多くの悩みを生じる。「それならば」と社会から出ようとしても、人間は社会に属さずに生きていくことはできない。人間はひとりで生きていくことはできない。この事実は、綺麗事ではなく、社会学や教育学の視点から言われていることである。

 しかし、今の時代、ひとりで生きていけると錯覚する人も多いだろう。一日中、誰とも会話せずに過ごすことだってできる。人間はひとりで生きていけるじゃないか。

 そうじゃない。そうじゃないんだよ。会うことは少ないかもしれないけれど、あなたには家族がいる。学生時代に様々なことを教えてくれた先生や、苦楽を共にした友人がいる。友人と呼べなくてもいい。一緒に教室にいただけでいい。あなたをいじめた奴でもいい。たまたまバイト先で一回一緒になったけれどあまり話さなかった人とか、ふと旅行に行っておいしい料理を出してくれた店主とか、そういうのでもいい。あるいは、亡くなった親戚でもいい。テレビに出ているタレントや俳優も、ラジオのパーソナリティも、そう。過去から未来にわたってあなたが関わるであろうすべての人間が、今この文章をひとり部屋の中で読んでいるあなたの社会性の一部となっている。定義の方法はいくつかあれ、私は社会性をそのようなものだと捉えている。私が先ほどから社会と述べているものは、あらゆる人間関係によって生じるネットワークのことである。几帳面でない人は、社会とはコミュニティのことであると思ってもらってよい。

 だから、あなたは生きた人間である限り、自分から社会性を引き剥がすことはできない。社会性を引き剥がそうとしたとき、人は生きることが困難な状態になる。私の友人は、すごく寂しい人で、彼は20歳になる直前に自殺した。私は、彼の残した日記を読んだ。彼が死ぬ前に見たものを見て、歩いたところを歩いて、彼が生きた日々を生きようとした。そして、分かった。彼の人生は寂しかった。埼玉県の高校でいじめにあって人間不信に陥った彼は、島へ飛んだ。自給自足の生活で、誰にも会わないし、誰とも話さない。きれいなはずの自然の風景が、寂しさを醸し出してきた。ポジティブな感情を引き起こすものが何もなかった。自分が生きているかどうかも、分からなくなった。彼は、社会性を完全に引き剥がすことに成功したわけではないが、自らが社会性を伴っていることを認識できなくなったのだと思った。

 よって、ここでは「人間は社会性を伴わずして、そして社会性を伴っていることを認識せずして、生きることができない」ということを第一の要請とする。これは、言い換えれば、「人間はひとりでは生きられないし、人間は孤独を感じながら生きることができない」ということである。

 

 そして、その要請を認めた上で、社会の構成員同士の支え合いは必要であるかを考えてみたい。これを考える際に重要なことは、自らが社会性を帯びていることを認識できない状態の危険さである。生きている人間は誰しも社会性を持つのに、それを自ら認識できなくなったとき、危険が近づく。その危険は、鬱という形で現れることもあるし、自殺という形で現れることもある。人間は誰しも、驚くほどいきなり、そのような状態になりうる。

 だから、というと安直かもしれないが、私は社会の構成員同士の支え合いは必要だと思う。社会への愛着を通じて社会性による幸福を享受する構成員が、社会を嫌い社会性を捨てようとしたとき、待ち受けるのは上記のような惨禍なのである。私は、支え合いの活動により、各構成員の社会への愛着を促進することができると考える。さらに、社会性を捨てようとして生きるのが困難な状態になっている方の手を掴み、こちらの世界に引き止めることができるのも、支え合いの活動なのである。

 ただ、社会を嫌わなくとも、悩みは生じてしまう。支え合いの活動を通して、そのような悩みを消化していくお手伝いをすることもできる。

 つまり、私は、社会における支え合いの活動について、次のふたつの機能があると考える。ひとつ目として、支え合いの活動は、構成員の社会への愛着を促進する。構成員が社会への愛着を感じ社会性を持ち続けることで、社会全体としてよく生きることができるようになる。ふたつ目として、社会性を認識するしないにかかわらず、構成員に悩みが生じた場合、支え合いの活動は彼らを手伝うことができる。このふたつの機能をもって、私は社会の構成員同士の支え合いは必要だと考える。そして、これらの支え合いの活動のふたつの機能の正当性を、第二の要請とする。

 

 私は、先に述べたふたつの要請を認めながら、大学においてピアサポート活動に取り組んでいこうと思う。これらの要請が正しかったのか、間違っていたのかは、数年後の本学の様子を見ると明らかになるだろう。

スウィングバイの教師論

 教師はどうあるべきか。私は教師という職をスウィングバイの惑星に例えることが多い。

 

 スウィングバイとは、惑星探査機などの宇宙機が、惑星の力を借りて軌道修正をしたり加速や減速をしたりする技術である。宇宙機が惑星の近傍を通過する時、惑星の重力によって宇宙機は加速し軌道を曲げられる。そして、宇宙機は加速しながら惑星に引き寄せられていくが、うまく衝突しないような角度で入射した場合、宇宙機は惑星の球体表面をなぞるようにトップスピードで通過していき、くの字を描くように減速しながら惑星から離れていく。つまり、加速しながらくの字の一辺を描き、惑星をなぞるようにトップスピードで曲がり、減速しながらくの字のもう一辺を描く。この際、惑星が宇宙機に近づく方向に公転していた場合、スウィングバイ前後で正味減速する。惑星が宇宙機から離れる方向に公転していた場合、スウィングバイ前後で正味加速する。

 

 惑星は教師で、宇宙機は生徒だと思い込んでみよう。教師とは、ゆっくりと飛んできた生徒を加速し、トップスピードの二度とない青春を体験させてあげるものだと思う。目まぐるしく過ぎていく日々が、生徒の心に強く刻まれる。その思い出は、生徒が社会に出て絶望して、闇に飲み込まれてしまいそうになった時に、暗い夜空に輝く小さな星のように、闇の中で彼らの道しるべとなる。

 ここで重要なことは、教師は生徒に衝突されないことだ。教師は、生徒より上の存在としてあるべきであって、生徒に翻弄されることで教師が成長するような戸村先生の例はあるものの、本来教師は生徒に衝突されて変化すべきではない。教師はどんと構えていて、生徒が飛んできたらその横にひょいと移動して、横目でにやっと笑って彼らをトップスピードで曲げていく。教師は本来そうあるべきだ。これは逃げではない。教師は強く自分というものを持っていて、生徒全員を同時に新しい軌道へと導く必要がある。衝突を避けつつ、横目で彼らを曲げていくのだ。幸い、惑星は球体であるから、どんな生徒とも正面から向き合うことができる。目まぐるしい速度で曲がっていく彼らに、正面から向き合う時、教師は彼らの今後を大きく変えることになる。

 生徒は教師の近くを曲がり終わり、だんだんと教師から離れていく。新しい進行方向に、広大な暗黒の宇宙に放り出される。彼らは減速をしていく。後ろ髪を引かれる思いがする。別れ際に、教師は生徒から意図的に離れることで彼らを加速させることができるし、近づくことで彼らを減速させることもできる。

 加速して送り出してあげよう。それが教師の仕事だと思う。ひとりひとりが、このトップスピードで駆け抜けた青春を、決して忘れることはないから、送り出してあげよう。

 そしてまた、新たな生徒が飛んでくる。目まぐるしい日々が、再び始まる。その中に、見たことのある宇宙機があった。いつか自分がスウィングバイをさせた宇宙機が、もう一度帰ってきたのだ。生徒にとって、教師はいつまでも教師だ。何度だって、彼らを曲げて加速してあげよう。

 

 遠い宇宙で輝き、時々帰ってくる彼らを見ることが、その大きな惑星の生きがいなのであった。

心象風景 春の歌

 大晦日と元日に実家に帰らなかったら親から催促のメールが来たので、3日に帰省をしました。昔から住んでいた家を出て、中学校の裏あたりに引っ越したらしく、地図を見ながら実家を探しました。

 

 約1年ぶりに家族と再会しました。そして、多分10年ぶりぐらいに、両親と姉たちと僕と犬の家族6人が同じ部屋にいる状況になりました。なんだか、居心地が悪かったです。

 一番年下の僕がもう20歳。両親はもうすぐ還暦を迎え、姉は就職し、もうすっかり終盤の家族形態になってきたように感じました。この6人にとって、家族という言葉は特別な意味を持っています。今までに何度も、家族としていることさえできない状況になりました。その中で、暴力的で独りよがりな父もいくぶん丸くなり、母は相変わらず強く暖かく、なんとかちぐはぐな形で家族として、今年はこうして新年を迎えられたこと、6人ひとりひとりにとってそれぞれ思うところがあるのだと思います。

 紆余曲折あった道のりの中で6人を繋ぎとめてくれたのは、上の姉でした。特に最近の上の姉の精神面の成長は素晴らしいと思います。難しい父と妹を持ち、高校時代は父と本当に仲が悪かった上の姉ですが、最近はリビングで家族6人が集まった時に、積極的に父に話しかけていくのです。そのおかげで、リビングの緊迫が薄まり、家族に自然と笑みがこぼれます。最近は自らの趣味も追求し、人間として大きく、私を、そして私たち6人を包み込んでくれているように感じました。

 下の姉は相変わらず精神的に不安定な状態が続いています。カウンセリングを受けさせたほうが良いのかなと思うのですが、それはもう少し生活が落ち着いてきてからでもよいのかもしれません。今はただ、切れそうな数珠の糸を、上の姉や母が強く引きつけ繋ぎとめてくれている状態で、さしあたりはそれで様子を見たいと思いました。

 

 数時間してすぐ家を出て、小中の幼なじみたちと公園で野球をしました。久々に会う人もいれば、つい数日前に会った人もいました。それぞれが、それぞれに様々な経験を重ね、時に悩み苦しんでいると思うのですが、それを経て今こうして昔と同じように話をして笑いあえることが、嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。

 焼肉食べ放題をして、お酒を飲んで、私の実家で飲み直して、飲み過ぎていつの間にか寝てて、起きたら結構な時間だったけど、時間なんて全然気になりませんでした。そういえば昔は、時間なんて気にならなくて、どんなに暗くなろうと制服で駆け回っていたのだなぁと、ふと思い出しました。

 

 東京に帰ってきて、4時間ぐらい会議に出て、ふと農学部の先輩に悩みを聞いてもらって、久々に人に悩みを打ち明けたなぁと思いました。東京は冷たいと思っていたけれど、それは思い込みで、本当はずっと暖かいものだったのかもしれません。それなのに、ひとり不愉快になっていたのでしょう。それから、閉館まで図書館にこもったものの、やることが多くてほとんど終わりませんでした。

 

 妙に暖かい夜の道を駅まで歩いていると、不思議と心が暖かくなってきたのは、どうしてだろう。道の真ん中に立ち尽くして、瞳を閉じてみる。

 瞳を閉じると、そこはいつもオレンジ色だった。公園の片側に夕日が沈んでいく。雲が染まる。帰りたくない暗闇がやって来る。紙飛行機を飛ばしながら、あの夕暮れ空を見ていた。

 

 誰かが言った。冬の夕暮れは、妙に暖かくて、春が歌っているみたいだと。

 

 そう、僕たちは、あの頃から友達だった。

戸村先生の涙

 NNNドキュメント‘06「子供たちの心が見えない~教師17年目の苦悩~」(2006年7月30日NTV放送)で紹介された、小学校6年生の学級崩壊について考察をする。

 

 私がこの事例に関心を持った理由は3つある。ひとつは、学級経営の難しさを教えてくれたから。ひとつは、学級崩壊の原因をいくつか示唆してくれたから。もうひとつは、教師という人間のあり方を考えるきっかけを与えてくれたから、である。

 

 まず、学級経営の難しさについて考えてみる。

 この映像を初めて見た時、「担任の戸村先生は大変そうだなぁ」というのが、率直な感想だった。生徒は「キモい」「死ね」などの言葉を、ためらいもなく戸村先生に浴びせる。休み時間が終わっても、教室に戻ってこない生徒がいる。授業中におしゃべりがやむことはない。整列ができない。授業が成立しない。このような状況の下でうまく学級経営をしていくのは、とても大変なことであると、私は感じた。

 自分が小学生だった頃を思い出してみると、先生はみんなに優しくて、時に怖くて、とにかく自分より大きくて、ぐいぐいと私たちを引っ張っていってくれる圧倒的な存在だった。たまに暴力やいじめの問題が生じたが、先生は真剣に向き合い、きちんと叱ってくれたので、すぐに解決をした。やっていることは、ほとんど戸村先生も同じだ。しかし、学級の様子は、私の小学校とはかけ離れている。どうしてだろうか。

 言葉にするのは難しいが、私の小学校時代の学級と戸村先生の学級では、教室の雰囲気がそもそも違う。学級は、30人程度の生徒と1人の教師が創り上げる集団だ。そこで生徒たちが発揮する力は大きい。私が小学生だった時は教師がすごく大きな力を持っていると感じていたが、実は、教師が学級を支配しているのではなく、学級の大部分を生徒が支配しているのだと、今になって私は思う。私は、よく高等学校を訪問し、教室で授業のようなことをしているが、授業の最初にその教室に入った時に生徒たちが醸し出す雰囲気は、学級によって本当に違う。教師は、その生徒たちに内在する力と、彼ら全体としての雰囲気の前に、何をすることができるだろうか。しかも、その生徒全体の雰囲気というのは、色んな生徒の雰囲気がごちゃまぜになったものなのだ。静かな生徒がいれば、騒がしい生徒もいる。そのように様々に圧倒的な雰囲気を押し出してくる生徒たちに対して、教師は何をすることができるのだろう。どのように教室の空気を創ることができるだろうか。戸村先生の苦悩を目の当たりにして、このような疑問が浮かんだ。学級における教師の無力さを実感した。

 その疑問について考えていく中で、この「生徒全体が押し出してくるごちゃまぜな雰囲気」と「学級崩壊」は紙一重であると、私は思った。つまり、国立教育研究所・学級経営研究所の「学級がうまく機能しない状況」の定義の中にある「集団教育という学校の機能が成立しない」状態というものは、生徒たちの持つ性格や価値観が対立し合い、ひとつとしてまとまらない状態なのだと考えた。私の小学校は公立だったので、生徒の個性がなかったというわけではない。しかし、それがたまたまうまく対立せず噛み合ってひとつの雰囲気になっていって、戸村先生のクラスはそうでなかっただけだ。それだけの、紙一重の違いが、学級崩壊を引き起こす。

 教室で教師は何をすることができるのだろうか。それは、生徒たち全員の雰囲気を受け取り、細かいところからひとつひとつ歯車が噛み合うように微調整していくことなのではないか、と私は考えた。全部、教師の思うとおりにはならない。生徒たちひとりひとりを、生徒たち全体の雰囲気を大切にしながら、少しずつ彼ら同士の関係、彼らと教師の関係を調整していくことが、教師のできることなのではないだろうか。

 

 次に、学級崩壊の原因について考えてみる。

 抽象的に言えば、先ほど述べた噛み合わない雰囲気というものが学級崩壊の主な原因になっているのだと思われるが、もっと詳しく戸村先生の学級が崩壊してしまった理由を見ていきたい。

 生徒たちが戸村先生に大きく反抗していた原因としては、発達加速現象により、子供たちの思春期の訪れが低年齢化したことが大きい。この現象により、小学6年生でも第二次性徴を迎える生徒は少なくない。そして、第二反抗期が訪れ、多くの生徒が戸村先生に反抗するようになっていたのではないだろうか。

 第二反抗期には、子供の自立心は強まり、大人への反抗をすることが多い。それは、子供がそれまでの自分の世界を見つめなおし、それまでの自分の世界を「くずす」ことで、新しい自立した自分を「つくる」試みである。今までの自分は親や教師などの大人に縛られていて、大人たちから押し付けられた世界の中で生きているような感覚を、第二次反抗期の子供たちは持っている。その世界は、成長するにつれてだんだんと生きにくいものとなっていく。そのような思いの中で、何とか自分とその世界を変えるために、その世界を押し付けてきた大人たちとの関係を揺さぶってみる。そうして、大人たちとの関係を壊せば、今までの世界、ひいては今までの自分も壊すことができるのではないか。今までの世界とは決別して、誰にも支配されない新しい世界を創ることができるのではないか。新しい自分を創ることができるのではないか。そのように考え、生徒は大人への反抗を繰り返す。

 戸村先生は、そのような生徒たちを相手にしていたのだろう。そして、戸村先生は叱りつけることで、彼らをまとめようとした。生徒たちにとって、戸村先生は大人たちの代表者であると同時に、自分たちを縛り上げている存在であり、真っ先に反抗の対象となるのは自然だった。子供の生活の中で、身近にいる大人と言えば、親を除けば教師のみの場合が多いからである。しかし、叱りつけるだけでは、何の解決にもならない。生徒たちは、自分を縛り上げる大人に反抗しているのであって、叱ることで解決するものはあまりない。

 この時期の生徒たちに対して、叱りすぎはよくないと私は考えた。彼らを包み込み、共に生きていくような態度が、教師に求められるのではないかと思う。その過程で、教師用RCRTを用いて、教師が様々な観点をもって生徒を認めることができるようになる必要も出てくると、私は考えた。

 もうひとつ学級崩壊の原因になっていると私が考えたのが、生徒たちの家庭環境だ。保護者会の映像を見ると、親は自分の子供のことを悪く言うことはなく、すべて先生に責任があるというような物言いをしていた。そのような親たちにも、学級崩壊の原因はあるのだと思う。教育は学校で完結するものではなく、家庭で親がある程度の教育をすることが期待されている。特に、一般的な社会のルールに関しては、家庭で日常的に守られている場合、学校でも守られることが多い。逆もしかりである。

 客観的に戸村先生のクラスを見ると、必ずしも戸村先生の振る舞いが悪いようには見えない。どこにでもいる普通の先生だという印象を、私は受けた。それを「子供がこんなことを言っているから」という前置句をつけて、すべて戸村先生の責任だと断言する親たちの姿は、教育を学校に任せっきりにしていることと、自分の子供に正面から向き合っていないことを示唆している。これらのことを親が意識していないと、子供たちが生活の中で身につけるべきルールを知らず、教師の負担は大きくなり、時に学級崩壊を引き起こすのだろうと、私は考えた。

 

 最後に、教師という人間のあり方について考えてみたいと思う。

 私は、戸村先生が学級崩壊で苦難し、それを乗り越えようとする姿に、教師とはどうあるべきなのだろうということを、強く考えさせられた。戸村先生は、教師生活17年目で、様々な生徒と関わってきた。そして、今年度初めて学級崩壊を体験し、生徒たちを叱りつけても無視をされまったく改善せず、保護者会で親たちに辞めてほしいと言われ、体調を崩し、体重はかなり減った。自分なりに頑張っているのに、何も改善しない学級。その中で、自分が生徒を叱りつけるばかりになってしまい、「生徒と楽しむ」という視点を忘れてしまっていることに気がつく。そこから、戸村先生は叱るより笑うということを意識し、自分の教師としての指導法を根本から変えようと努力した。そして、教室の雰囲気は変わり始めた。

 小学校でこのような、教師自身の変化が必要な例は珍しいかもしれないが、中学校や高等学校の教師については、このようなこともかなり多いと思う。というのも、学年が高くなるにつれて、生徒は「ひとりの大人」として、教師に迫ってくるからである。それ以外にも、生徒たちと関わっていく中で、今回のように「怖い先生」が「優しい先生」に変わるようなことが求められることがある。

 教師は、多くの人間と接する難しい職業であると、私は思う。事務仕事はやり方を覚えれば誰にだってできるが、教師はそうではない。学級経営を進めていく中で、生徒たち全員のことを受け止め、ひとつの学級としてまとめていかなければならない。多感な時期の生徒たちひとりひとりのことを受け止める時、教師はたくさんの苦悩を経験すると思う。その中で、上で見たように教師自身の変化が必要なこともあり、それはとても大変な作業となるに違いない。そして、生徒ひとりひとりをまとめて、ひとつの学級を創り上げる大変さも、戸村先生の姿を見ていて感じた。色んな生徒がいて、それぞれ性格や価値観が異なっていて、さらにはそれぞれが多感で、そんな生徒たちがひとつの教室で集団として存在することをサポートする教師の役割の難しさは、この上ない。その大変さに翻弄され、戸村先生の前任の先生は体調を崩し、戸村先生も体重がかなり落ちた。

 それなのに、そんなに大変な職業なのに、どうして教師になりたがる人がいるのだろうか。

 私も、将来教師になりたいと考えている。私はあの教室の暖かい雰囲気が大好きで、静かな生徒も騒がしい生徒も、どんな生徒もいてよい居場所としての教室が大好きだ。そして、その教室の中で様々なバックグラウンドを持った生徒たちが様々な問題を起こすのだけど、それらの問題のひとつひとつを乗り越えて生徒たちが何かしらを学び、そしてその生徒たちの長い人生の中で役に立ったり、つらい時に思い出すと元気になれるような素敵な思い出になったりしたのならば、私はこれ以上ない教師としての喜びを感じるだろう。

 だから、戸村先生も生徒たちも色々苦労したと思うのだけど、それが生徒にとって、戸村先生にとっても、何かしらの学びになったり、素敵な思い出になったりして、卒業の日を迎えたのならば、集団教育の血の通ったメリット(集団として生きる中で、人間関係について学んだり、心に残る思いをすること)がきちんと機能しているので、戸村先生の学級はとてもよい学級だったのではないだろうか。

 その証拠に、卒業文集に「戸村先生みたいな先生になりたい」と書いた生徒がいたこと、そして、その文章を見た戸村先生の照れくさそうな笑みと涙を、私は挙げることができる。

 

 

 

参考文献

12人のカウンセラーが語る12の物語(6)

事例小説

 

 フロイトは、初期の著作である『ヒステリー研究』(1895)の中で次のように述べている。

 

 私は、これまでずっと精神療法だけに携わってきたわけではない。他の精神病理学者と同じく、私も局所診断や電気予後診断学の教育を受けてきた。にもかかわらず、私の書き記す病歴がまるで短編小説のように読みうること、そして、そこにはいわば厳粛な学問性という刻印が欠如していることに私自身、奇異な思いを抱いてしまう。

 

 また、フロイトは晩年のインタビューにこのように応えている。

 

 私は人には告白の効用を教えてきたけれども、自分自身は自らの魂をありのままに開陳できずにいた。…誰一人として私の仕事の本当の秘密を知る者はいないし、それを推し測る者すらいなかった。…皆は、私が自分の仕事を科学的なものと見なしていると思っている。また皆は、私の主な意図は精神疾患の治療にあると思っている。これはひどい誤解だ。この誤解は長年にわたって広まってきたが、私は今日に至るまでずっとそれを正すことができなかった。私はやむをえず科学者になったのであり、それが天職だったわけではない。実のところ、私の天性はアーティストなのだ。…私は医学の一分野である精神医学を文学に転換することを思い付いた。私は科学者の外見をまとっているけれども、詩人であり小説家であったのだし、今もそうだ。精神分析は文学的な仕事を心理学と病理学の言葉で演出したものに他ならない。…実際、私の本は、病理についての論文よりも、イマジネーションの作品によりよく似ている。……私は自分の運命を間接的なやり方で勝ち取ってきたのであり、夢を実現してきたのだ。その夢とは、なお医師の外見を保ちながらも、文学者であり続けることである。……科学的な専門用語(jargon)に置き換えられてはいるものの、精神分析においては、十九世紀の三つの偉大な文学の流れが融合しているのが分かるだろう。私にとっての古くからの師、ゲーテの助けによって、私の中で、ハイネ、ゾラ、マラルメが一体となっているのだ。

 

 カウンセリングの(現代的な)科学性と(フロイトの言う)芸術性を鑑みると、この12の事例物語の価値が、分かるかもしれない。

 

 

出典

杉原保史・高石恭子『12人のカウンセラーが語る12の物語』(ミネルヴァ書房, 2010)