12人のカウンセラーが語る12の物語(5)

いのちのバトン

 

 大学の学生相談室では、基本的にひとりの学生に対して同じカウンセラーが継続してカウンセリングを行うが、カウンセラーの人事移動によって担当を継続できなくなることがある。半年間の休学の末に今年度二度目の四年生となった彼女も、担当のカウンセラーが次々と変わっていたようで、杉江さんで四人目のカウンセラーだった。

 

 彼女は、言葉数が少なく、ぽつりぽつりと、自分の悩みを打ち明けた。

 

 「何か、先が見えないというか。どういう風に生きていったらよいのかわからないし。何か死んだ方がましだというのがあって、どちらかというと死んだ方がましだという思いが強くて・・・」

 

 彼女は、高校卒業後に三年間フリーターをしてから今の大学に入学した。だから、年齢のことで、就職はうまくいかないと彼女は思っている。進学も考えたようだが、研究者として自分がうまくやっていけるわけはないと、彼女は半分諦めている。杉江さんが学部のことについて尋ねると、今学んでいることが、本当にやりたいことかどうかが分からないと言う。また、金銭的に余裕がないようで、彼女は毎日早朝に新聞配達をしているらしく、心身共に疲れきっている状況だった。そして、人間が怖い、人間と関わるのが嫌だと、彼女は感じていた。杉江さんは、カウンセリングの最後に毎回「一緒に生きよう」という言葉をかけた。

 

 しかし、杉江さんの海外出張により、週一回で定期的に行っていたカウンセリングが一回分あいてしまうようになったとき、彼女は自殺未遂をした。杉江さんは、危機的な状況にある学生に関わっているときには、次に会うときまでちゃんと生きていてほしいと思いながら、一日一日を過ごしている。杉江さんの実生活の中で、面接時に語られた彼女のイメージが浮かんできて、彼女は今こんな思いをしながらいるのかなぁと時折思うことがあるそうだ。このような関係が、彼女をこちらの世界にとどめているのではないかと、杉江さんは思う。彼女のどうしようもない苦しさを共有しながら一緒に時を刻むことが、カウンセラーができる、そしてやるべき行為なのではないだろうか。

 

 彼女は、苦しみつつも、日々の生活に楽しさを見出して、就職をした。四人のカウンセラーが繋いだいのちのバトンを、杉江さんは彼女自身に託した。

 

 「君は君が思うほどダメじゃないんだから・・・」

 

 想うことで、心は繋がる。人間関係は、そういうものなのかもしれないと、私は感じた。カウンセリングにおいて重要な「苦しみの共有」という行為は、カウンセラーの実生活にも影響を及ぼしてくることがしばしばあるが、杉江さんはそれをごく自然に、それでもってとても重く、受け止めている。そんな生き方もありだと、私は思う。

 

 

夕暮れ

 

 博士二年の彼は、秋の暮れに道又さんのもとを訪れた。彼は、この時期まで論文を一本も投稿できていないことに対して、つらさを感じていた。また、夕暮れを恐れ、夕暮れを見ると涙が出て、人生が終わってしまうような気がすると言う。

 

 カウンセリングを進めていく中で、彼は失恋を経験するが、自分の意見を研究室の教授にうまく伝えることに成功して、そこからどんどん自信をつけていく。そして、ついには二本の論文と博士論文を書き上げ、卒業までこぎつけた。彼は、いつの間にか、夕暮れの美しさに感動できる心を取り戻していた。

 

 この物語の裏には、もうひとつの話が存在する。この大学のとある学生が、亡くなるのだ。その学生は、道又さんのかつてのクライエントで、長期のカウンセリングの後に病院に入ることになったが、その学生はその病院で自殺をした。道又さんは感じた。病院に入ることが決まったから、自分の役割は終わったのだと勘違いしていたのではないか。しかし、病院に入るといよいよ精神状態が不安になるに決まっている。その学生が危険な時期に入ったことを、自分はきちんと意識していたのだろうか。道又さんは、クライエントの来室の重みを感じた。相談室の扉を出れば、クライエントには苦しい世界が待っている。それを、忘れてはいけない。絶対に、次も生きて来室してほしい。そんな思いが、博士二年の彼のカウンセリングを、よい方向に導いたのかもしれない。

 

 色のない世界から、色のある世界へ。秋、紅葉、雲、空。相談室の扉を開けたら、そこが色のある世界になっているように、働きかけることが、カウンセラーのやるべきことなのかなと、私は感じた。

 

 

折れた向日葵

 

 彼女は、大学二年の秋に、安住さんのいる学生相談室にやって来た。ずっと首を左に傾けているので、安住さんは「うなだれた向日葵」のようだという第一印象を受けた。彼女は、勉強のやる気が出ないということで相談に来ていた。

 

 話を聴いていくと、彼女には色々あったようだった。彼女の母は教育熱心で、彼女の大学受験へ向けてたくさん準備をしていたようだったが、彼女の大学受験の半年前に亡くなってしまった。彼女は、その時、もう母に怒られなくてもよいのだと、半ば安心したと言う。母の死の動揺からか、第一志望の大学には落ちてしまい、彼女はこの大学に入学した。ここらへんに、勉強のやる気が出ない原因がありそうだった。

 

 その後、安住さんの導きによって、彼女は両親の夫婦関係について、もう一度考え直すことで、気持ちを整理することができた。大学を卒業した後、もう大学受験をして医学を学びたいという目標もできた。そして、彼女はまっすぐに前を向いて、相談室をあとにした。彼女はもう、うなだれた向日葵ではなかった。安住さんには、彼女が、新しい目標に向かって前を向く向日葵に見えた。

 

 この物語には、カウンセラーとして安住さんが熟達している様子がいくつか見られる。

 

 まず、安住さんが、彼女と初めて会った時の「うなだれた向日葵」という第一印象を大事にしているということだ。第一印象は、案外相手の深い、本質的なメッセージを伝えてくることが多いと、安住さんは感じている。そして、カウンセラーの力量は、第一印象や、こちらが抱く違和感を、どれだけ精確にしかも自分の言葉で記述できるかにかかっているのではないかと、安住さんは言う。

 

 また、安住さんは、彼女とのカウンセリングの中で逆転移を使用している。母親として、彼女の母親のことを考え、個人的な素直な気持ちを述べている場面がある。

 

 「お母さんが、あなたのことを、どう思っていたか、今となっては本当のことを知ることは誰にもできない。でも、私は、お母さんはあなたの成長を見届けられなくなって、とても残念に思っていると思うよ」

 

 しかし、葛藤の末につむぎ出したこの言葉は、本当に素直な気持ちで、安住さんのその気持ちを彼女も汲み取っている。精神分析の分野では逆転移は禁忌とされているが、それを超えて安住さんは伝えたくなったのだろう。心に浮かんだ感情を、精確な言葉で伝えようと思ったのだろう。その努力をした末に、彼女の心にその言葉が届いたのだった。

 

 カウンセラーは、クライエントの一段上に立っていそうなイメージがあるが、安住さんは、心の底から対等に、正面から彼女と関わっていきたいと感じていたのだと、私は思う。

12人のカウンセラーが語る12の物語(4)

デクノボウの住みか

 

 幼い頃から、母親に育児放棄され、学校にも行かなかったマリコ。彼女は、幻覚や幻聴などを日常的に体験し、錯乱状態で病院に運ばれてきた。彼女のカウンセリングを、伊藤さんが担当することになった。

 

 マリコにとって、入院は人生で初めての社会デビューだった。挨拶や食事の仕方、歯の磨き方、脱いだ衣服のしまい方などを、病院で初めて学んだ。彼女は、伊藤さんや他の入院患者たちと関わっていく中で、問題を起こしつつも、人と関わることを覚えていく。そして、ついには、買い物をしたり電車に乗ったりすることができるようになった。

 

 その後、伊藤さんはマリコと別れ、女子大学の学生相談員になった。伊藤さんは、たまにマリコのことを思い出す。マリコの年齢に近い学生たちが、伊藤さんのもとを訪れて、大学生活の苦悩を打ち明けるたびに、彼女たちにはもっと過ごしやすい場所があるのではないか、大学は彼女たちに何を与えるのだろうと、伊藤さんは考えてしまう。

 

 器用に生きられないデクノボウが、どんどん居場所を失っていく気がした。私たちは、彼女たちを住まわせる隙間を、この社会に残しておくことができるのだろうか。そして、彼女たちにとって、その住みかでの生活が幸せだと少しでも感じることができるようになったらいいなと、私は願った。

 

 

自分を取りもどす道

 

 「こんなカウンセリングに、意味があるんですか?」

 

 古宮さんのもとを訪れた綾乃さんは、怒りをもってそう言った。彼女は、世界の中での強烈な孤独感を感じていた。そして、彼女には自我があまりなかった。他人からアドバイスをされると、それをしなければならないという強迫観念にかられた。自分は空っぽの容器で、他人が好きなように手をつっこんで中身をかき混ぜたり、好きな物を入れたり取り出したりする感じがすると、彼女は言った。

 

 生い立ちからか、綾乃さんは自分自分に劣等感を感じることが多かった。しかし、彼女はそれと同じだけのプライドを持っていた。劣等感があるから、他人にアドバイスをされると受け入れてしまう。プライドを持っているから、自分がきれいな容器であると他人に見せたくなる。うまくいきているようで、彼女は劣等感とプライドの間を不安定に揺れていた。古宮さんは、そんな綾乃さんを、いつも暖かく包んだ。いつしか彼女は自分の気持ちをうまく表現することができるようになってきた。

 

 「大学の友達にも、言いたいことをわりと素直に話せるようになったと思います」

 

 そして、彼女は大学を卒業していった。

 

 「こんなカウンセリングに、意味があるんですか?」

 

 カウンセラーとしては、この言葉はかなり重い言葉なのではないかと思う。実際に、カウンセリングの技法を学ぶと、積極的なアドバイスをするのではなく、クライエントの話を受け止め、共感することで、クライエントの気持ちの整理をするということが、カウンセリングの本質なのだということを知る。しかし、これではあまり役に立った気がしないし、クライエントからしたら助言をくれないしカウンセリングなんて役に立たないという実感があるのかもしれない。

 

 それでも、寄り添い続けること。カウンセラーに必要なことは、クライエントの未知の可能性を信じて、ずっと寄り添い続けることなのではないだろうか。綾乃さんと古宮さんを見ていて、私はそう感じた。

 

 

卒業まであと半年

 

 卒業まで半年というところで、優子さんは田名場さんのもとへと相談にやってきた。

 

 「就職先を決められないんです」

 

 彼女はそう言い終えると同時に、涙を流し始めました。彼女は、国家公務員と地方公務員の試験に合格をしているが、どちらに就職しようか悩み、決断できないでいた。

 

 彼女は田名場さんと共に、それぞれの選択肢についてよく考えてみるのですが、それでも決断はできなかった。そして、田名場さんは、彼女の根本的な問題として「自分で決められない」という彼女の性格に着目する。彼女はいつも、家族や先生、友人など、他の人に決めてもらって生きてきた。だが、彼女自身、今回は自分で決めなければという思いを持っている。田名場さんと彼女のカウンセリングが進むにつれ、彼女が家族に対して抱いている負の感情を、彼女自身で受け止められるようになった。そして、そのことがきっかけで、ほとんど彼女の中で答えが出てきたようだった。彼女は言った。

 

 「自分で決めてもいいのかなって」

 

 そんな彼女に対して、背中を押すように田名場さんは言う。

 

 「百パーセントオリジナルの考えを求めるのは現実的には難しいよね。いろんな人の考えを参考にして、優子さんが、まぁ今はこれでいいか、となんとなく思えることが大事なんじゃないかな」

 

 その回を最後に、彼女は相談に来ることはなかった。のちに、地方公務員として働くことになったことを、彼女は笑顔で田名場さんに報告しに来たのだった。

 

 田名場さんが、カウンセリングが終わって彼女と別れるときに「いってらっしゃい」という言葉を使っていたのが、印象的だった。カウンセリング以外の時間も、クライエントは苦しむ。相談室のドアを開けると、そこにはまた重く苦しい世界が待っている。「いってらっしゃい」と言えば、またクライエントがどうしようもなく苦しいと感じたとき、帰る場所として相談室があるんだよと、教えてあげることができる。その少しの言葉遣いに、私は暖かさを感じた。

12人のカウンセラーが語る12の物語(3)

 

 「先生は私を見捨てました」

 

 大学に入って、勉強に専念するあまり、睡眠をほとんどとらず、過密なスケジュールを組んだ彼。ある日、同級生に勉強ができなくなる魔法をかけられたと彼は言った。母親に病院に連れてこられて混乱している彼を、山本さんは辛抱強く見守った。

 

 しかし、彼と山本さんの間には、大きな断絶があった。一生懸命努力したのに、病気になってしまって、好きなことをすることができなくなってしまった彼と、ある程度好きなことをすることができる山本さん。彼は言った。

 

 「先生は私のことをぜんぜん分かっていません」

 

 山本さんは、一日中彼のことを考えるようになった。彼の好きな音楽を聴いて、彼の見た景色を見て、彼の読んだ本を読んだ。そして、次第に山本さんの中には、寂しさや悲しさ、虚しさがつのっていった。彼がどうしようもない孤独の中にいることに気づいた。

 

 しかし、理解をできたところで、彼と山本さんの間にあった断絶が消えるわけではなかった。それは、決して消えることはない。山本さんが家でテレビを見ているときも、寝転んでいるときも、常に彼は苦しんでいる。その不条理は、消えるはずがなかった。

 

 彼に関わる中で、山本さんは、人生で初めて他者と深い触れ合いをしていたことに気がついた。断絶を埋めることはできないけれど、理解しきれない苦悩の中を必死に生きている彼と本気で関わろうとするとき、表面上の波風を立てないような応対だけでは不十分だった。山本さんと彼は、たくさんの話をし、本気で笑ったり、泣いたり、怒ったり、喧嘩をしたりした。

 

 他者の心を知りたくても、私たちは他者の心の相似形を見ることしかできない。異なるバックグラウンドを持っていれば、感じ方や考え方も違う。だから、私たちは他者の気持ちを理解することはできない。ただ、山本さんが彼の心を理解しようと思う心が、この物語の唯一の救いであり、悲しみであった。

 

 私たちは、どこまで分かり合えるのだろうか。人間関係というものが、どんどん分からなくなっていく。

 

 ただ、ひとつだけ分かることがある。病室の窓から秋の空を眺める山本さんと彼の心には、互いの存在というものが、ぽつりと雲のように浮いている。

 

 

痛みの通過点

 

 優子は、予約なしで学生相談所を訪れた。高橋さんが話を聴くと、優子は人間関係の悩みから自傷行為に走ってしまうようだった。しかし、その事実をサバサバと話す優子に、高橋さんは驚いた。

 

 話を聴いていくうちに、優子の家族には嫁姑の確執が存在し、優子がうまく立ち振る舞うことによって、家族は保たれていたようだった。だから、彼女は人間関係全般について、うまく立ち振る舞おうとして、無理をしてしまう。それが溜まりに溜まって、自傷行為に走っていたのだった。

 

 自傷行為による入院を心配した家族が、優子を連れて三人で高橋さんのもとを訪れた。父娘の口論は凄まじかったが、母はまったく口を出さなかった。優子は、そのように抑制的な母が、自分のことを理解してくれていないと感じていた。優子は、母から頻繁に送られてくる手紙を読むのが怖かった。

 

 優子は、苦しんだ。髪をカラフルに染め、ピアスをいくつもつけ、風俗に手を出した。優子は、自分なりに悩み考え抜いて、母にこう言った。

 

 「今は、資格よりも生きてる意味を探したい」

 

 この言葉を聴いても、母は動じなかった。優子だけではない。高橋さんには、この家族が回り始めた気がした。そして、優子は卒業の年に、就職をすることを決意し、無事に養護施設への就職を果たす。初めて自分のために自分の力で頑張った優子の心は、充実していた。これからも生きてる意味を考えながら、優子は充実した日々を送るのだろう。

 

 優子は、賢い子だと思う。人間関係についてうまく立ち振る舞おうとして悩む人は、結構多いのではないか。その中で、優子はそれを乗り越えた。自分で考え、決断をした。そして、自分で探さねばならない「生きてる意味」を探そうと、自ら旅に出た。何も痛みを感じずに生きているよりも、優子のように痛みを感じたことのある人のほうが、「生きてる意味」を重要視することができるのかなと、私はふと思った。この物語を読み終わった後、優子の健気さに胸が暖かくなるのを感じた。

 

 

迷惑がられるのはイヤなんです

 

 相談に来た彼女は、ゼミや進路のことで悩んでいるようだった。田中さんは、彼女のカウンセリングを進めていくうちに、彼女が人に迷惑をかけることを極度に嫌い、身動きができなくなっていることに気がついた。

 

 田中さんと話をしていく中で、次第に彼女は自分の気持ちを素直に人に話すことを学ぶ。彼女にとって、人に自分の気持ちを話し素直に人と交流することは、迷惑をかけることに違いなく、それはとても苦しいことだった。その苦しみを味わいながらも、彼女は少しずつ、努力を重ねていった。

 

 この物語の中で、田中さんがひとつの寓話「ヤマアラシのジレンマ」の話をしている。ヤマアラシの群れが、ある寒い冬の日に一緒に寄りそって、お互いの体温で寒さをしのごうとする。けれど彼らは、すぐにお互いの針を感じて、そのためにまた離れ離れになってしまう。そこで、再び体を暖めようとして近づくと、針の禍が繰り返される。彼らは、その二つの苦悩の間をあちこちとうろつき、ついには一番我慢しやすい適当な距離を見つけ出した。

 

 フロイトは、この寓話をある論文で引用し、親密なふたり(夫婦や親子、友情など)の関係には「ほとんどすべて拒絶し敵対する感情のしこり」が含まれており、それに気づかないのは、ただ抑圧されているからだ、と言った。

 

 何度も痛むまで近づくことによって、相手の針と暖かさを知ること、そして、自分の針と暖かさを知ること。それなしには、互いに暖めあい迷惑をかけあえる人間関係は生まれないのだと、私は思う。

12人のカウンセラーが語る12の物語(2)

生きのびるための死

 

 「研究室の指導教授との人間関係がうまくいかない」

 理学部三年の彼は、そのような悩みを持ち、カウンセラーの高石さんのもとを訪れた。彼は、カウンセリングを通して、この世界の他者との断絶(ひいては、高石さんとの断絶)を語り、次第に高石さんに強迫観念を押し付け、自らの感じている苦しみの世界へと高石さんを引きずり込もうとするようになった。高石さんの日常生活は彼の強迫観念で支配されるようになり、高石さんはスーパーヴァイザーとの面接をする。高石さんが自己の内面を見つめつつカウンセリングを進める一方で、彼の苦しみは基本的には変わることはなく、二年の留年を経て、彼は卒業をしていった。

 

 この物語の中で印象的な場面がひとつある。

 

 それは、高石さんがスーパーヴァイザーと面談をする場面だ。スーパーヴァイザーのマーク先生は、「母性でもって彼を包み込もうとすることは大事だけど、やみくもに包んで何かに閉じ込めようとするのはどうかな」と高石さんに伝えた。そう、彼と高石さんの間には、断絶が存在した。彼はこの世界の中で孤立しており、この世界に存在する他者との断絶を感じている。そして、彼にとって高石さんはこの世界の他者の代表だったのだ。包み込もうとしても、決して包むことのできない断絶が、そこには存在した。

 

 彼は次第に、孤高の世界の自分を殺して、こちらの世界の他者とうまくやっていく方法を模索し始めるが、最後にはやはりうまくいかなかった。同様に、高石さんも、彼のカウンセリングをするために、何でも包み込もうとする自分を殺さなければならなかった。そして、その死は諦めではなく、挑戦に違いなかった。異世界で同時に生じた、今までの自分を殺すという「生きのびるため死」のシンクロニシティに違いなかった。

 

 

殺意の自覚

 

 その心細そうな女子学生が、カウンセラーの杉原さんのもとを訪れたのは、研究室の人間関係で悩んでいたからだった。彼女は、同じ研究室に所属する変わり者の男性の先輩から好意を持たれていて、頻繁にメールを送られ、ご飯に誘われる。彼女は、そんな先輩の態度にストレスを感じているが、思い切って断ったり、怒ったり、自己主張をしたりすることができず、困っていた。

 

 最初は、彼女は単にストレスを感じているだけのようだったが、カウンセリングを進めていく上で、彼女が先輩に対してどうしようもなく殺意を感じていることが判明する。その抑えきれない感情にどう対処していこうかということを、杉原さんと彼女は考えていく。そして、最後には、殺意を抑えてきちんと先輩に向けて自分の思っていることを言うことができるようになり、彼女は研究をうまく進めていくことができるようになった。

 

 この物語の中で、杉原さんは、自らの性格が彼女と似ていることを指摘している。フロイトは「分析家は自分自身が到達した地点を越えてその先にまで患者を導くことはできない」という言葉を残している。しかし、ニーチェは言った。「自分の鎖を解くことはできなくても友の鎖を解くことができる者もいる」と。

 

 杉原さんは、カウンセリングを通して、誰を救おうとしたのであろうか。そして、自分が見たくても見られない地平を彼女に見せてあげたいと、どれだけ願ったのだろうか。その願いが、彼女の心を救ったのかもしれないと、私は思った。

 

 

それは突然やってくる

 

 とある大学の学生相談所でカウンセラーをしている中川さんは、初夏に女子学生から「隣人の騒音に悩まされている。毎日飲み会をしている声が聞こえる」という相談を受ける。

 

 折り角、男子学生が酒で酔って公衆の場で服を脱ぐ動画がネットで流通し、大学に苦情のメールや電話がたくさん来るようになった。中川さんは、ネットの掲示板を探し、男子学生の動画を批判することで盛り上がりを見せているスレッドを発見した。そのスレッドに、大学のメールアドレスや電話番号が書かれていて、「みんなで大学にメールと電話をしよう」という書き込みがされていた。この書き込みを基点に、この騒ぎが生じていたのだった。掲示板には、動画で服を脱いだ学生の実名まで書いてあった。

 

 掲示板では、ちょっとした言葉の強さや傾きが次々と妄想を生んで、現実から遊離していっていた。中川さんは、そんなネット社会の匿名の何者かによって、翻弄され、疲れきってしまった。

 

 大学側が動画に関しての謝罪文を出すことによって、掲示板の賑わいは急速に衰えていった。ちょうどその頃、違うニュースが飛び込んできたことによって、ネット上の賑わいはそちらへ移動した。

 

 そして、実は、この一連のネット上の「祭り」を誘導していたのが、初夏に相談に来た彼女であることを、杉原さんはのちに知ることになる。

 

 ネットは怖い、というのが、この物語を読んだ率直な感想だった。最近は、掲示板はあまり活発でないものの、SNSの中で様々な人の発言が様々に「祭り」を誘導している。程度の差こそあるが、SNSと現実世界で、性格が解離している人もたくさん見られる。私には、そのようなネットユーザーが、冷たい海の中を群れをなして泳ぐか弱い魚に思えた。彼らが暖かい海をゆっくりと泳ぐ日は、果たしてやって来るのだろうか。

12人のカウンセラーが語る12の物語(1)

 このブログの「単一原理段階のカウンセラー」という記事を読んでくださった臨床心理士の先生から、この本を読んでみるといいよ、と言っていただいて、杉原保史さんと高石恭子さんの著作『12人のカウンセラーが語る12の物語』(ミネルヴァ書房, 2010)を貸していただきました。

 

taiyoitoh.hatenablog.com

 

 この本は、12人のカウンセラーが書いたフィクションの事例物語を収めたものです。事例報告や事例研究とは異なります。実際に活躍しているカウンセラーが、このような事例物語を創作するという試みは、ほとんど前例のないものでした。しかし、素晴らしい試みであったと、この本をすべて読み終えた私は思います。

 

 この本を読み終えた時に、思うことがたくさんありました。それは、これらの事例物語には、少なからず著者のカウンセラーの方々の人生観、ひいては魂のようなものが、反映されていたからだと思います。ひとつひとつの物語が、私の心に迫ってくるような感覚がして、時に重く、時に暖かく、私の心はざわめきました。

 

 物語たちが私の心に強く迫ってきた理由のひとつに、12の物語すべてに私と同じ年代のクライエントが登場していることが挙げられると思います。きっと、どこかで共感し、共に悩むような心の動きが生じたのでしょう。

 

 私のように、青年期の真ん中で揺れている方々に、読んでいただきたい本だと感じました。

諦めないことと決め付けないことの同値性

 久々の雨。台風が来たかのように打ちつける。窓の外の騒がしさを、静かな部屋の小さな窓からうかがう。窓際で憂鬱になって、外に出たくないなぁと少しの間だけぼうっとした。

 昨晩は、色々考え事をして遅くまで起きていたけれど、いつの間にか眠りについていた。そして、目覚めると既に八時半だった。今頃、教室では一時限目の講義が始まっているのだろう。あぁ、行きたくない。雨は強さを増していく。

 昔から雨は苦手だった。天候に左右されるのは馬鹿馬鹿しいとは思うけれど、晴れの日は、きれいな青空が見えて、深呼吸が気持ちよくて、外に出かけたくなる。一方、雨の日はその真逆で、出かけたくないし、ずっと家で寝ていたいと感じる。

 どうせ遅刻だし、行かなくてもいいかなぁという考えが一瞬頭の中をよぎったけれど、なんだか今日は諦めたくなかった。いつもならここで、部屋にこもろうと決めてしまうのに。

 重い腰をあげ、スーツに着替える。髭を剃る。コンタクトレンズをつける。寝不足だからか、コンタクトレンズがなかなかつかない。今日はまた、若々しい中高生に夢を与えるようなバイトをする予定だから、それなりの容姿に整えた。

 

 ようやく家を出る。外は、予想通りの土砂降りだった。折り畳み傘で出てきてしまったのだけど、長い傘を持って来ればよかったなぁと、最寄駅までの道を歩きながら思う。雨の音がうるさい。イヤホンをつけて、音楽を流す。元気な曲をかけると、雨の音があまり聞こえなくなった。なんだか、もう駅までたどり着くのだけでもしんどいなぁと思っていたのに、音楽を聴くだけでこんなに気持ちが楽になるなんて。雨の中、歌を口ずさみながら、無事に駅までたどり着いた。駅に入って、傘を畳んで、左半身のコートがかなり濡れていることに気づく。

 いつもの電車に乗る。時間が遅いので、いつもよりかなり空いている。ほっと一息もつかぬ間に、目的の駅に着いてしまう。

 階段を登って、地上に出ると、雨が少し弱まっている気がした。また、傘を差して、音楽を聴きながら、雨の中を歩く。ほどなくして、大学に到着する。赤門をくぐり、教室に入る。

 

 教育相談2の授業。教室に入ると学生が一斉にこちらを見てきたが、暗かったのでそんなに恥ずかしくはなかった。一番後ろの席に座って、前方にあるスクリーンを見ると、小学生が書いたらしい絵が映し出されていた。プリントを見ると、どうやら不登校の児童が書いた絵らしかった。

 この講義の先生は、いくつかの小学校でスクールカウンセラーとして働いている先生で、その絵は実際のカウンセリングの際に用いたもののようだった。残酷でグロテスクな絵が、時間を経るにつれて、カウンセリングの回数を重ねるにつれて、清い絵に変わっていく。その様を横目で見つつ、今日の正午締め切りの数学のレポートを書く。昨日の夜にやるはずが、いつの間にか寝てしまっていたのでできずじまいだった。提出締め切りの2時間前に初めて問題を見たのだけれど、テンソルについてのレポートだったので、少し安心する。授業中に、ぱぱっと終わらせた。

 そんなこんなでこの講義が終わった。今日で最後の講義だったらしく、授業アンケートとレポートが配られた。先生がすごく優しそうな方で、色々学ぶことが多かったこの講義。とてもためになったので、今日でこの講義が終わってしまうことは、なんだか感慨深いものがある。レポートに、この講義の先生への感謝の気持ちをめいっぱいに書き連ねて、先生に渡した。またひとつ、終わっていった。この先生に出会えて、この講義を聴けて、よかった。そんなことを思う。教室のドアを開けた瞬間、少し寂しい気がした。

 

 教室を出て、廊下を歩きながら思う。あの不登校の児童が描いた絵を、心の中で思い出す。あの子は、どんなこと考えていたのか。どういう経緯で、学校に行きたくなくなったのか。どうして、あの先生はその子を見捨てなかったのか。

 

 外に出る。私は、明るさに視界を奪われた。明るい光の中で、銀杏の葉が舞うのが見えた。

 

 私たちは、諦めたくなかったんだと思う。不登校の児童も、少しドジな自分も、諦めたくなかった。そこに、未知の可能性を見出したくなった。進みたくなった。見守りたくなった。生きたいと願った。光を見たくなった。私たちは、諦めたくなかった。

 どうしてだろうか。

 強い光の中で、私の目に鮮やかな青色が飛び込んでくる。私たちはきっと、あらゆる者に対して、可能性を捨てたくないと思っている。決め付けたくないと思っている。今なら、その理由がなんとなく分かる。

 

 なぜなら、雨はいつか止むから。

単一原理段階のカウンセラー

 臨床心理士の先生が講師をしてくださって、傾聴についての勉強会をしました。

 

 傾聴ってなんだろう。まず、そこが私の一番の疑問だったのですが、なんとなく傾聴ってこんなものなのかな、みたいなのが見えてきた気がします。

 

 勉強会の前半では、河合隼雄さんの「こころの処方箋」(新潮文庫, 1998)の冒頭の文章を読みました。第1章のタイトルは「人の心などわかるはずがない」。正直、このタイトルだけでも結構な驚きなのです。著者の河合隼雄さんは、臨床心理学の大家であり、カウンセリングを何度も経験しているはずです。それにもかかわらず、河合さんは「人の心などわかるはずがない」と、この本の冒頭で言うのです。

 

 河合さんはこの章において、本当の専門家は、相談者の心に対して簡単に判断を下さないこと、また、本当の専門家は、心を分析したり行動の原因を明らかにしようとはしないことを、強調しています。では、本当の専門家はいったい何をやっているのか。河合さんはこの本の中で次のように述べている。私はこの一節にひどく心を奪われた。

 

 「心の処方箋」は「体の処方箋」とはだいぶ異なってくる。現状を分析し、原因を究明して、その対策としてそれが出てくるのではなく、むしろ、未知の可能性のほうに注目し、そこから生じてくるものを尊重しているうちにおのずから処方箋も生まれ出てくるのである。

 

 未知の可能性とはなんだろう。私はこの文章を初めて読んでみて、最初は意味を取ることができませんでした。ひと通り読み終わったところで、私は率直な気持ちを発言しました。

 

 「人の心などわかるはずがないというのは、自分の中で相手にレッテルを貼ったままだと、相手の話を聴いたところで相手の本当の心は分かるまい、という意味で言っているのか、それとももっと深い意味で、つまり、先入観を捨てて相手の話を聴いたところで、プロのカウンセラーでさえ相手の本当の心は分かるまいという意味で言っているのか、読んだだけでは分かりませんでした。しかし、個人的には後者なのかなと思います。というのも、価値観や様々な部分が異なる人の心を完全に理解するのは、なんとなく難しいと思うからです。」

 

 私のすぐあとに、他の学生さんが発言をしました。

 

 「先ほどの意見に関連して、人間は主観でしか物事を見ることができないので、自分が見ているものは、すべて自分の視点で見た物事でしかないと思います。たまに相手の心が分かったと思うことがありますが、それはあくまで相手の心の相似形が見えただけで、相手の心に近いものを知ることができているのかもしれませんが、完全に同じもの知ることはできないんじゃないかな。」

 

 なるほど、彼の意見はとても重要な気がしました。というのも、私はほとんど、自分の見ている世界が本当の世界だと思い込んでいるところがありました。私は、今見ている世界が、あくまで自らのレンズによって映し出した世界であるということを、再認識すべきだと気付かされたのです。彼は、いつも私に大事なことを気づかせてくれる発言をしてくれます。彼はどうしてか、私の持っていない視点を持っていて、私の見ることができない何かを見ているような気がするのです。まぁ、それは置いておいて。

 

 他の学生さんが続いて考えを述べました。

 

 「人の心などわかるはずがないというタイトルは、河合さんがカウンセリングを行う上でのモットーなのではないかと思います。人の心がわかるかわからないかはたいして大きな問題ではなく、人の心などわかるはずがない、という想いを持ってカウンセリングに臨むことで、レッテルを貼ることを防ぐことができるのではないでしょうか?」

 

 彼の言葉を聞いて、臨床心理士の先生が「モットーとしてずっとこの言葉を忘れないことは、カウンセラーとしてとても重要なことです。」とおっしゃいました。このようなモットーを忘れない態度が、傾聴には不可欠なものであるのかもしれない、と私はふと思いつきました。

 

 難しい顔をした学生さんも、またこれに続きます。

 

 「僕は、感情というものは人間に特有なものだと思っていて、侵されることはないというか、そんなに簡単にわかるものではないと思います。」

 

 すごく「人」が大好きな彼が言ったこの意見、私もずいぶんと前に考えたことがあります。私も情報系のはしくれとして、人工知能とよばれる頭のいいロボットについて勉強をしています。その中で、感情は再現可能か、ということを考えるようになりました。私としては、人間もありふれた物質組成で成り立っているために、人工物で感情を再現できないはずはないと思っています。しかし、そうは思えないほど、人間の感情には血がかよっているのだという感覚を、私は得てしまうのです。うまく説明できないけれど。

 

 そして最後に、臨床心理士の先生がぼそっと一言おっしゃいました。

 

 「河合さんが、非行少年というレッテルを貼られた方のカウンセリングを行ったとき、彼の非行を解決しよう、ということではなく、彼の未知の可能性が垣間見えるのを待とう、という言葉を使ったのは、実はすごいことだと思うんです。何が解決とかは言わずに、ただ彼の言葉を聴き入れながら見守る姿勢が、素晴らしい。」

 

 最初、私はこの「未知の可能性」という言葉は、きっと、河合さんが何度もカウンセリングをしてたくさんのケースを見てきたことを具体的に想像して言っているのかもしれないと思いました。しかし、様々な意見を聞くことで、彼が見ている可能性というものは、もっと一般的で、もっと多義で、彼自信も把握できない領域すらを含んでいるのかもしれない、と私はふと思ったのです。

 

 この、捕らえられたようでよく分からない言葉、フィッシャーに言わせれば「単一原理段階」の発言なのではないかと、私は直感的に思いました。

 

 その日の帰り道、ひとりでずっと傾聴について考えました。それではとどまらず、数日間、傾聴についてぼんやりと考えていました。その中で、私が誰かと会い、話を聞くとき、どうしようもなく相手にレッテルを貼っていることに気づいたのです。会って言葉をいくつも交わさないうちに、仕草や外見、その言葉や言葉遣いから、「この人はこういう人だ」ということを頭の中で考えてしまう自分がいて、それがまさにレッテルを貼るということに違いないのではないか、ということを考えついたのです。それは、私の他人に対する態度が、傾聴のそれとはかけ離れたものだということを示唆している気がして、私は少し落ち込みました。というのも、私は会って数分で「この人はこういう人だ」と「直感的に分かる」ような自分は、他人のことを感じるのがうまいのではないか、と考えていました。しかし、それは決めつけにはなっていなかっただろうか、と振り返れば、思い当たる節があるのです。私の属するいろんなコミュニティの中で「融通を利かせて物事をうまくこなす人」や「不器用で物事をうまくこなせない人」というレッテルを無意識のうちに貼って、割とやっかいなことを誰かに任せなければならなくなった時には、必ず前者に頼むのです。私は、知らない間に、未知の可能性を潰していたのではないか、と感じました。

 

 そんなことを考えていると、折角また勉強会に参加していた、いつも私に新しいことを気づかせてくれる例の彼に会う機会があって、ふと彼に先ほど述べたような話をしてみました。

 

 結論から言えば、彼の答えは「自分の感じた印象や気持ちは、それ自体大切にしながら相手と関わっていってよいのではないか。」ということでした。そういえば、以前、カウンセラーの方に「何度も同じ方の相談を受けていると、個人的な感情が芽生えてくるように思うのですが、その感情をどのようにコントロールしているんですか?」という質問をさせていただいた時に、「自分の気持ちは自分の気持ちで大事にしながら、そういう感情を抱いている自分がいるなぁと思う自分もいて、自分の気持ちをある意味利用しながら、話を聴いている。」という回答をいただいて、そうなのかぁと、あまり理解できないままにやりすごしたのだけど、私が今悩んでいることは、まさにそれに強く関係しているのだと思います。

 

 つまり、自分が相手の話を聴くにおいて、ひいては自分が相手と関わるにおいて、自分の目で見、自分の耳で聴き、自分の心で感じたことは、大事にしておきながら、そのような感情を抱いている自分をある種冷静に見つめる自分も存在させておいて、その絶妙なバランスを保つことが、今の私が一番よいと思うところの他人との関係なのです。これが正解というようなものは存在しないのかもしれないけれど、それが今の自分が一番納得できる態度であると思うから、さしあたりこれでいいんだと思うようになりました。自分が誰かの相談にのる時も、たわいのない話をしている時も、常にこの態度を忘れずに、状況に応じてその割合を変えていくことで、今の自分が望むようなコミュニケーションをとることができるような気がするのです。やってみなければ、どうなるかは分からないけれど。

 

 人の話を聴くことや、人と関わることは、生活の中でありふれた行為であるので、あまりそれについて考えることはありません。ですが、ちょっと立ち止まって、そのありふれたことについて考えてみるのも、よいと思います。もしかしたら、そこには「未知の可能性」が広がっているのかもしれないのだから。