思い出

 金曜日の深夜2時頃に、ドライブをしないかと電話をいただいて、知り合いの車に乗っていると、思わずながら群馬県に来ていました。車の後部座席で目が覚めた時に、窓の外を見やると、それはそれは美しい朝日と、どこか見覚えのある風景が広がっていて、いつ見たんだっけとしばらく考えていたのですが、車を運転していた友人の一言で思い出しました。

 「もう10年も前になるなぁ。」

 まぎれもなく、ここは尾瀬。小学校5年生の時に、林間学校で訪れた、思い出の地。この腐れ縁のドライバーと一晩中語り明かした、懐かしい記憶がよみがえります。小学5年生の自分は、少しずつ大人の事情が分かり始めていて、その上で自分がどのように振る舞えばいいかを考えて、でもそれは友人たちには理解出来ないことであることを自覚していました。こんな悩みを言っても、誰も分かってくれないんだろう。そんなことを思って、誰にも言わずに人知れず落ち込む日々が続きましたが、林間学校のあの夜に、「悩みがあるなら俺に言えよ。」と言ってくれた同級生がいて、初めて人に自分の悩みを打ち明けたのでした。星がきれいで、夜風が気持ちよくて、本当に夢のような夜でした。

 その同級生も、今ではいかつい外見になって、深夜に連絡をよこしてドライブに誘ってくるようになったと思うと、10年って長いなぁと思うわけです。

 

 金曜日の夜、ドライブに行く前、バイト先の先輩方と焼き肉を食べたりお酒を飲んだりしていたのですが、その裏で映画「思い出のマーニー」がテレビで放送されていました。私はこの映画が大好きで、スタジオジブリの作品の中で一番好きです。公開当時、大学の友人とこの映画を映画館まで見に行ったのですが、初めて見た時は本当に強い衝撃を受けました。

 両親と血がつながっていないことを悩んでいる中学生の杏奈は、持病の気管支喘息の療養のために、親戚の住む海辺の村でひと夏を過ごすことになります。杏奈は、昔は笑顔をたくさん見せていた子だったのですが、成長するにつれて、血がつながっていない両親のことを悩み始め、次第に暗く大人びた子に変わっていきました。そんな杏奈が、海辺の村の湿っ地屋敷に住む少女・マーニーと出会います。杏奈は、マーニーとの様々な経験を通して、感情を取り戻し、両親と自分の関係を受け入れることができるようになります。そんな、ひと夏の、杏奈の成長の物語です。

 

 ドライブに連れだされて、車内でぐっすり寝ていた私ですが、いつの間にか思い出のマーニーの夢を見ていました。目覚めた時に、あんなに心穏やかになっていたのは、マーニーの夢を見ていたからなんだろうと思います。そんなこんなで夜が明けて、なんで尾瀬なんだろうと不思議に思っていたら、腐れ縁ドライバーにとある学校の体育館に連れて行かれました。彼は昔から、説明を省くことが多く、そこのところとても厄介なのです。突然体育館に連れて来られた私に、彼は直前になって説明を始めました。

 「これは、対人関係に難しさを感じている高校生・大学生とその保護者の方々の集まりなんだけど、お前に30分やるので何か話をしてくれ。」

 なるほど、彼はいつもこんな適当な感じだが、意外といろいろ考えていて、大学でも心理学を専攻しているんだった、と会の趣旨を納得した私でしたが、適切な話題が思いつかず、ちょっと待ってくれと彼に伝えました。ですが、彼は一言だけ言葉を放って、私を壇上に放り出しました。

 「お前が実際に悩んだ話をしてほしいんだ。」

 悩んだ話、悩んだ話・・・。そうか、これを話そう。そう決心するまでに、そう時間はかからず、私はあたかも東京から来たお偉いさんのような感じで話を始めることになったのです。以下、私が公演をさせていただいたお話の内容になっています。

 

 

思いやり

 「あれほどに 猛暑去れよと 願いしが 秋風を知る 寂しさはなぜ」

 すっかり秋の陽気になり、空に浮かぶ雲も様々な模様を見せてくれる季節になりました。とてもきれいではあるのですが、どことなく寂しさを感じるような秋の空が見られるような季節になってしまったのだなぁと、あはれの心が大好きな私は思ってしまうのです。

 

 はじめまして。・・・(自己紹介は省略)・・・。

 先日、父と母と一緒に、東京で食事をしたのですが、特に母と会うのは実家を出てから初めてで、こちらはまったく寂しくはなかったのですが、母のほうはとても寂しがっていたようで、まぁそうだろうなぁという感じでした。そんなことで、今日させていただくお話というのは、すごく難しいかもしれません。端的に表現するならば、それは

 

「人はいつ死ぬか」。

 

 心臓が停止した瞬間に、人間は死ぬのだろうか。あるいは、脳が活動を停止した瞬間に、人は死ぬのだろうか。人は、いつ死ぬのだろうか。みなさんは、考えたことがあるでしょうか。

 みなさんの中には、身近な人が亡くなった経験をお持ちの方もいらっしゃるでしょうし、そうではない方もいらっしゃるでしょう。ただ、高校生や大学生のうちは、まだ死というものがどのようなものなのか、いまいちよく理解できない場合が多いのではないでしょうか。私も高校生の時、そんな感じでした。

 私は、大学1年生の時に、恩師を亡くしました。小学校3年生の時から通っていた、そろばん教室の先生です。私は、様々な経験をその先生と共にし、そろばんのことだけでなく、人間として大切な礼儀や、社会の中で生きていくための道徳を学びました。

 

 そんな先生が亡くなったのは、私が大学1年生の年の6月のことです。今でも忘れはしません。あの日、日中にサークルの試合があり、夜に試合お疲れ様の飲み会をしていたのです。飲み会が終わって、外に出て、携帯電話を開くと、何件もの電話通知が残っていて、掛け直すと、そろばん教室の後輩が出て、先生が亡くなった旨を知ることになったのです。その瞬間、私は本当に信じられなくて、何も考えられなくて、流れ出るように涙が溢れて、動く気力もなく、とりあえず歩かなきゃと思って歩いてみたものの、「なんで歩かなきゃいけないんだろう。」そんな思いが頭に浮かんで、その場に座り込んで、後輩が迎えに来てくれるまで、ずっと地べたに座り込んでいたんですね。

 死因は癌でした。直接会いはしていませんでしたが、2週間に1度ぐらいの頻度で手紙のやりとりをしていて、癌の治療は順調だと聞いていたので、本当に突然のことで驚いてしまいました。

 

 遺言書には、「病で弱った体を見られたくない故、誰にも見られぬように火葬すること。」と書いてあったそうで、とうとう私は、先生のお顔を拝見することがなかったのです。私が最後に先生に会ったのは、私が高校3年生の8月のことでした。ビルの屋上で、蝉の声に身を焦がされながら、涼しい風を感じながら、受験の話をしたのを覚えています。とある大学を受験することを初めて先生に告げると、先生は表情を一切崩さず、「なぜその大学を受験するんだい?」と私に問いました。私は、馬鹿にされると思ったのだけど、正直に答えました。「私は、人生を逆転したいのです。今の家庭状態は厳しく、金銭的にも生きていくのが厳しく、私は大学に行くからには、無償で行ける大学を選ばなければならないのです。また、あの大学には、日本におけるある程度の知名度があります。地位や名誉が欲しいという気持ちはまったくありませんが、それらを利用して、金を稼いで、家族を助けたいのです。」私は、はぁ言ってしまったなぁ、という気持ちでいっぱいだったのですが、先生は表情を一切変えませんでした。そして、人差し指を空にめいっぱい突き上げて、こう言ったのです。「あのヤケに明るい星は、月や地球を照らして崇められているが、一体なんのために輝いているのだろう。人は何のために生きて、死んでいくのだろうね。人間は不思議な生き物だね。だって、他者との安定した関係を求めるのに、自分と自分の心との対話を怠るのだから。一番近くにあるはずの自分の心というものが、一番遠いように思ってしまうんだから。太陽から見れば、輝く月や地球は美しいだろうに、自分は地獄のごとく赤く燃え上がり、毒々しいばかりじゃないか。」

 この時、私は初めて、人間って何のために、誰のために生きるのが正しいんだろうって、考えたんです。私は衝撃を受けて、しばらくの間、暑い屋上でぼうっとしていました。いつの間にか先生が飲み物を買ってきてくれて、私に言葉をかけてくれたんです。「まぁ、誰が何と言っても、受けるんだろう?お前は昔から、思い切った決意をする時は必ず、それなりの覚悟をもっているし、一度だって引いたことがない。今回も思うようにすればいい。ただ、いつも言っていることを忘れないで。たとえ失敗したとしても、挑戦したという選択を後悔しないように。いや、後悔しないような選択をしなさい。そして、家族は大事にしなさい。」

 

 これが、私が聴いた先生の、最後の声に、私が見た、先生の最後の笑顔になったのでした。

 

 今年の夏、私は大学3年生で、あの夏は、もう随分遠い過去に感じてしまいます。8月のある日、私はひさびさに埼玉に帰省して、夕方に偶然先生の息子さんのお宅の近くを通り、しばらくぶりに会ってみようということで、息子さんのお宅を訪れました。息子さんは私を歓迎してくださって、夕ご飯までごちそうしてくださいました。夕ご飯を食べている時に、息子さんは偉く真面目な顔をして、私にある事実を告げました。

 

 先生が亡くなったのは、本当は4年前の今日なんだ、と。

 

 4年前の今日、つまり、あの屋上で私と先生が話をした、あの日。あの日の夜に、先生は亡くなったそうです。大学1年の春まで定期的に私に届いていた先生からの手紙は、先生が生前に書き溜めたものを、息子さんが私に送ってくれていたものだったのです。先生は、自分の死によって、私が動揺して大学受験や大学生活のスタートに失敗しないように、息子さんや、そろばん教室の先輩・後輩に、芝居を頼んだのだそうです。知らなかったのは、私だけだったのです。あの時、あの屋上で、どうして気がつけなかったんだろう。そんな想いで私の心がいっぱいになる前に、先生の「結果に後悔はするな」という言葉が聞こえた気がしました。だから、私は何も知らずに受験をしてのうのうと大学に入学したことを、絶対に後悔してはいけない。そしてまた先生も、私にこんな最大のドッキリを仕掛けるという選択を、絶対に後悔していない。

 その日の夜、私は先生のお墓を訪れました。ひとつだけ言いたいことがありました。「先生、あなたが一番の太陽だったじゃないですか。最高の、自虐だったじゃないですか。私はあなたが照らしてくれたおかげで、人間は何のために生きるのか、誰のために生きるのか、見えてきました。」私は、涙が止まりませんでした。その夜、星を見ながら、ずっとずっと墓前に座っていたのでした。

 

 人はいつ死ぬか。

 

 私の中で、大学1年の6月まで生きていた先生の影法師。先生は、確かに私の中で生きていて、確かに私の近くにいたのです。

 私は、東京で一人暮らしをしていても、どうせ父や母は、ど田舎で相変わらずやかましく元気にしているのだろうなと思っています。電車に数時間乗っていけば、実家について父や母に会えるんだろうと思っています。しかし、父や母は、きっと常に私のことを心配しているのです。

 

 思いやりとはなんだろう。考えたことがあるでしょうか。人を思う心は目には見えません。

 だから、思いやりは行動で示そう。私は、先生から手紙が来ていたから、先生が見守ってくれていると思えたのです。私は、両親からしょっちゅう連絡が来るから、心配してくれている、愛されていると思うし、どうせ両親は元気だろうと安心できるのです。だから、行動に表そう。恥ずかしいかもしれない。失敗したら嫌だなと思う。だけど、相手に思いが伝わった時、その恥ずかしさや不安よりもはるかに大きいものを、あなたは生むことになるのです。相手の心にも、自分の心にも。

 実際は、先生は亡くなっていました。だけど、先生の私を思う心が、私を救ってくれました。また、実際は、私には戸籍上の両親がいません。しかし、今私には確かに、両親がいるのです。あんなに、心配してくれる人たちがいるのです。私の父と母は、まぎれもなく、私の父であり、母であるのです。

 

 最後に、私の小学校時代の話をして、この長いお話を締めくくらせてください。私は、小学校5年生の時に、林間学校でこの尾瀬の地に来たのですが、ちょうどその時、両親のことや、そろばんのことで、すごく悩んでいたのです。また、私は少し大人びていて、あまり仲のよい友達がおらず、林間学校をあまり楽しむことができていませんでした。そんなことで、夜、私が一人で星を眺めて涙を流していると、あまり話したことのないいかついやつがやってきて、私の隣に座って、言ったのです。

 「俺みたいなバカに分かるか分かんねぇけど、お前の思ってること全部聞きたいんだ。」

 そこからずっと、きれいな朝日が登ってくるまでずっと、彼は私の話を真剣に聞いてくれました。素敵な夜でした。今でも忘れない。あんなに気持ちが楽になった夜はありませんでした。

 

 ぜひ、話してみよう。話をすることで、生まれるものがあります。伝わる気持ちがあります。私から皆さんに伝えたいことは、これに尽きます。ぜひ、話をしてみよう。

 

 ちなみに、林間学校の夜に話を聞いてくれたいかついやつとは、10年経った今でもよく連絡を取り合っています。そう、ちょうど、髭面で、ソフトモヒカンで。皆さんにも見覚えがあるかもしれませんね。

 

 私の話は以上です。ありがとうございました。