弱くあることと休学のすすめ

 キャンパス内の池のベンチに寝転がって、空を見上げる。こもれびが暖かい。池の中で、亀がゆっくり泳いでいく。耳をすます。滝の水が流れる音、風に木の葉がそよぐ音、鳥のさえずり、グラウンドの勇ましい声。ここが東京の真ん中であることを忘れそうになるけれど、ふとした瞬間にかすかに車の入る音が聞こえる。老夫婦が僕の横をゆっくりと通り過ぎていく。

 

 雲が確かに動いている。

 

 そのことに気がついた時、僕はこれ以上ない幸せを感じる。静かな時の流れの中で、雲はゆっくり流れていく。歩いていては分からない。疲れた足を癒すために、ふと立ち止まって、ふと寝転んでみて、初めて気づくことができる。

 

 心は遠く、数年前の4月13日、この池から50mほども離れていない大講堂の景色に移る。入学式の時に聞いた、名誉教授の祝辞を思い出すと、いつだって身震いする気分になる。彼は言った。休学をして、世界を見てくるといい、と。世界の中の自分を見つめるための「休学のすすめ」。これが大学か。そう思うことができた、素晴らしいスピーチだった。

 しかし、僕は思う。僕はそんなに頑張りたくない。この大学の人は、生き急いでいる。この池でひなたぼっこをする学生は、ほとんどいない。課題に追われ、研究や就職を見据え、毎日せわしなく動き回る。僕は強くない。世界をひっぱるような存在になりたい訳でもないし、なれるとも思わない。 僕は、彼らのように頑張るための気力を持ち合わせていない。

 

 昔からよく、星を見ていた。星の瞬きはか弱くて、弱い自分の仲間だと思えた。仲間たちが空から見守ってくれているように思えた。最近は冬が近づいてきて、東京でも星が綺麗に見えるようになってきた。僕は、冬のダイヤモンドが好きだ。先日、家のベランダから冬のダイヤモンドが空いっぱいに広がっているのが見えて、しばし見とれてしまった。上京して半年、東京の空ってこんなに小さかったんだ、星座ってこんな大きかったんだと、初めて知った。

 しかし、星座というものは、昔の人が勝手に星を結んで考え出したらしい。人生は、地球に与えられた物質という手札以外に要素がなかったゲームだったはずなのに、いつの間にか私たちの手札は増えた。金、国、法律、倫理、道徳、信頼、価値。言語、人種、色彩、音階、流行。正しいとはどんなことを言うのか。間違いとは何か。大事なものとは何で、いらないものとは何か。これら全部を、人間は創り出した。今の世界は、人間が創り出したもので回っている。

 

 世界の中の自分を見つめる前に、自分の中の世界をきちんと見ることができているか。僕たちは、あたかも世界が絶対で、その世界に挑む存在として自分があると思い込む。しかし、それは少し意気込みすぎなのではないか。世界が人間によって創られたのならば、ひとりひとりが自分の思う世界を創り出していい。多分、世界はそういうひとりひとりの世界の重ね合わせで出来ていて、少しずつ変化していくひとつの主体であり、客体であるのだ。

 

 文部科学省 は「新しい学力」や「生きる力」という言葉を打ち出して、教育改革を目指しているらしい。僕は思う。人間は、どこまで決めていいのだろうか。人間は、どこまで他人を評価していいのだろうか。評価をするということは、矢印の正の向きを決めることになる。それは、世界の押し付けにならないか。正の向きが定まるような人間の評価というものは、あっていいものなのか。

 ひとりひとりの個性を伸ばしたいのなら、既存の価値観の押し付けは行われるべきではない。本当の「生きる力」を子供達につけさせたいのならば、評価はすべきでない。今の教育の流れでいくと、生き方がコンテンツ化・パッケージ化していく気がする。

 誰しも、強い訳ではない。誰しも、元気に主体性を持って感情豊かに生きていける訳ではない。理想的な生き方を、客観的に示すことは可能なのだろうか。

 

 主体性とはなんだろう。ある状況下において、自ら判断し行動するような性質のことだろう。だから、主体的というのは、「ある状況の中で」主体的だ、ということができる。主体的というと、あたかも自分の中だけで完結しているように思えるが、主体性というのは必ず外の世界と関わって初めて定義されうる。 

 主体性は外の世界と関わるもので、日本の教育改革は主体性をつけさせようと考えている。星はか弱くまたたき、人間は星座を結んで夜空を楽しむ。あの名誉教授は、世界の中の自分を見つめるために、休学をすすめていた。僕は今、池のほとりで寝転がって、ひとりでそんなことを考えている。

 

 この池の静けさに、巻き戻っていく想い。

 

 空に浮かぶひとつの雲が、ふかふかのベッドに見えた。僕がふかふかのベッドに見えたならば、あれはふかふかのベッドでいいじゃない。ダメな理由があるのだろうか。

 僕は思う。消極的で破壊的な主体性を持って生きたい。きれいに生きなくていい。消極的でいい。無理して世界に適合しようとしなくていい。時には静かにカッコよく世界の一部を破壊して創り変えていい。世界の中の自分を見つめるために休学しなくてもいい。休みたくなったら、自分の中に世界を見つけたくなったら休学したらいい。ちょうど、池に浮かぶ亀と同じように。

 

 そして、僕は忘れない。あの名誉教授の祝辞の最後の言葉を。

 

 「Carpe Diem 今日をつかむ」

 

 僕は、ゆっくりと流れる時間の中で、自分の思うままに、今日をつかむ。