単一原理段階のカウンセラー

 臨床心理士の先生が講師をしてくださって、傾聴についての勉強会をしました。

 

 傾聴ってなんだろう。まず、そこが私の一番の疑問だったのですが、なんとなく傾聴ってこんなものなのかな、みたいなのが見えてきた気がします。

 

 勉強会の前半では、河合隼雄さんの「こころの処方箋」(新潮文庫, 1998)の冒頭の文章を読みました。第1章のタイトルは「人の心などわかるはずがない」。正直、このタイトルだけでも結構な驚きなのです。著者の河合隼雄さんは、臨床心理学の大家であり、カウンセリングを何度も経験しているはずです。それにもかかわらず、河合さんは「人の心などわかるはずがない」と、この本の冒頭で言うのです。

 

 河合さんはこの章において、本当の専門家は、相談者の心に対して簡単に判断を下さないこと、また、本当の専門家は、心を分析したり行動の原因を明らかにしようとはしないことを、強調しています。では、本当の専門家はいったい何をやっているのか。河合さんはこの本の中で次のように述べている。私はこの一節にひどく心を奪われた。

 

 「心の処方箋」は「体の処方箋」とはだいぶ異なってくる。現状を分析し、原因を究明して、その対策としてそれが出てくるのではなく、むしろ、未知の可能性のほうに注目し、そこから生じてくるものを尊重しているうちにおのずから処方箋も生まれ出てくるのである。

 

 未知の可能性とはなんだろう。私はこの文章を初めて読んでみて、最初は意味を取ることができませんでした。ひと通り読み終わったところで、私は率直な気持ちを発言しました。

 

 「人の心などわかるはずがないというのは、自分の中で相手にレッテルを貼ったままだと、相手の話を聴いたところで相手の本当の心は分かるまい、という意味で言っているのか、それとももっと深い意味で、つまり、先入観を捨てて相手の話を聴いたところで、プロのカウンセラーでさえ相手の本当の心は分かるまいという意味で言っているのか、読んだだけでは分かりませんでした。しかし、個人的には後者なのかなと思います。というのも、価値観や様々な部分が異なる人の心を完全に理解するのは、なんとなく難しいと思うからです。」

 

 私のすぐあとに、他の学生さんが発言をしました。

 

 「先ほどの意見に関連して、人間は主観でしか物事を見ることができないので、自分が見ているものは、すべて自分の視点で見た物事でしかないと思います。たまに相手の心が分かったと思うことがありますが、それはあくまで相手の心の相似形が見えただけで、相手の心に近いものを知ることができているのかもしれませんが、完全に同じもの知ることはできないんじゃないかな。」

 

 なるほど、彼の意見はとても重要な気がしました。というのも、私はほとんど、自分の見ている世界が本当の世界だと思い込んでいるところがありました。私は、今見ている世界が、あくまで自らのレンズによって映し出した世界であるということを、再認識すべきだと気付かされたのです。彼は、いつも私に大事なことを気づかせてくれる発言をしてくれます。彼はどうしてか、私の持っていない視点を持っていて、私の見ることができない何かを見ているような気がするのです。まぁ、それは置いておいて。

 

 他の学生さんが続いて考えを述べました。

 

 「人の心などわかるはずがないというタイトルは、河合さんがカウンセリングを行う上でのモットーなのではないかと思います。人の心がわかるかわからないかはたいして大きな問題ではなく、人の心などわかるはずがない、という想いを持ってカウンセリングに臨むことで、レッテルを貼ることを防ぐことができるのではないでしょうか?」

 

 彼の言葉を聞いて、臨床心理士の先生が「モットーとしてずっとこの言葉を忘れないことは、カウンセラーとしてとても重要なことです。」とおっしゃいました。このようなモットーを忘れない態度が、傾聴には不可欠なものであるのかもしれない、と私はふと思いつきました。

 

 難しい顔をした学生さんも、またこれに続きます。

 

 「僕は、感情というものは人間に特有なものだと思っていて、侵されることはないというか、そんなに簡単にわかるものではないと思います。」

 

 すごく「人」が大好きな彼が言ったこの意見、私もずいぶんと前に考えたことがあります。私も情報系のはしくれとして、人工知能とよばれる頭のいいロボットについて勉強をしています。その中で、感情は再現可能か、ということを考えるようになりました。私としては、人間もありふれた物質組成で成り立っているために、人工物で感情を再現できないはずはないと思っています。しかし、そうは思えないほど、人間の感情には血がかよっているのだという感覚を、私は得てしまうのです。うまく説明できないけれど。

 

 そして最後に、臨床心理士の先生がぼそっと一言おっしゃいました。

 

 「河合さんが、非行少年というレッテルを貼られた方のカウンセリングを行ったとき、彼の非行を解決しよう、ということではなく、彼の未知の可能性が垣間見えるのを待とう、という言葉を使ったのは、実はすごいことだと思うんです。何が解決とかは言わずに、ただ彼の言葉を聴き入れながら見守る姿勢が、素晴らしい。」

 

 最初、私はこの「未知の可能性」という言葉は、きっと、河合さんが何度もカウンセリングをしてたくさんのケースを見てきたことを具体的に想像して言っているのかもしれないと思いました。しかし、様々な意見を聞くことで、彼が見ている可能性というものは、もっと一般的で、もっと多義で、彼自信も把握できない領域すらを含んでいるのかもしれない、と私はふと思ったのです。

 

 この、捕らえられたようでよく分からない言葉、フィッシャーに言わせれば「単一原理段階」の発言なのではないかと、私は直感的に思いました。

 

 その日の帰り道、ひとりでずっと傾聴について考えました。それではとどまらず、数日間、傾聴についてぼんやりと考えていました。その中で、私が誰かと会い、話を聞くとき、どうしようもなく相手にレッテルを貼っていることに気づいたのです。会って言葉をいくつも交わさないうちに、仕草や外見、その言葉や言葉遣いから、「この人はこういう人だ」ということを頭の中で考えてしまう自分がいて、それがまさにレッテルを貼るということに違いないのではないか、ということを考えついたのです。それは、私の他人に対する態度が、傾聴のそれとはかけ離れたものだということを示唆している気がして、私は少し落ち込みました。というのも、私は会って数分で「この人はこういう人だ」と「直感的に分かる」ような自分は、他人のことを感じるのがうまいのではないか、と考えていました。しかし、それは決めつけにはなっていなかっただろうか、と振り返れば、思い当たる節があるのです。私の属するいろんなコミュニティの中で「融通を利かせて物事をうまくこなす人」や「不器用で物事をうまくこなせない人」というレッテルを無意識のうちに貼って、割とやっかいなことを誰かに任せなければならなくなった時には、必ず前者に頼むのです。私は、知らない間に、未知の可能性を潰していたのではないか、と感じました。

 

 そんなことを考えていると、折角また勉強会に参加していた、いつも私に新しいことを気づかせてくれる例の彼に会う機会があって、ふと彼に先ほど述べたような話をしてみました。

 

 結論から言えば、彼の答えは「自分の感じた印象や気持ちは、それ自体大切にしながら相手と関わっていってよいのではないか。」ということでした。そういえば、以前、カウンセラーの方に「何度も同じ方の相談を受けていると、個人的な感情が芽生えてくるように思うのですが、その感情をどのようにコントロールしているんですか?」という質問をさせていただいた時に、「自分の気持ちは自分の気持ちで大事にしながら、そういう感情を抱いている自分がいるなぁと思う自分もいて、自分の気持ちをある意味利用しながら、話を聴いている。」という回答をいただいて、そうなのかぁと、あまり理解できないままにやりすごしたのだけど、私が今悩んでいることは、まさにそれに強く関係しているのだと思います。

 

 つまり、自分が相手の話を聴くにおいて、ひいては自分が相手と関わるにおいて、自分の目で見、自分の耳で聴き、自分の心で感じたことは、大事にしておきながら、そのような感情を抱いている自分をある種冷静に見つめる自分も存在させておいて、その絶妙なバランスを保つことが、今の私が一番よいと思うところの他人との関係なのです。これが正解というようなものは存在しないのかもしれないけれど、それが今の自分が一番納得できる態度であると思うから、さしあたりこれでいいんだと思うようになりました。自分が誰かの相談にのる時も、たわいのない話をしている時も、常にこの態度を忘れずに、状況に応じてその割合を変えていくことで、今の自分が望むようなコミュニケーションをとることができるような気がするのです。やってみなければ、どうなるかは分からないけれど。

 

 人の話を聴くことや、人と関わることは、生活の中でありふれた行為であるので、あまりそれについて考えることはありません。ですが、ちょっと立ち止まって、そのありふれたことについて考えてみるのも、よいと思います。もしかしたら、そこには「未知の可能性」が広がっているのかもしれないのだから。