デュルケムの声を聞いて

 フランスの社会学者であるエミール・デュルケムが1925年に完成させた「道徳教育法」は、彼の晩年の著作である。この「道徳教育論」は、彼がパリ大学文学部の講義「教育の科学」を担当した際の講義案を基にして書かれた。その講義は、1902年に行われた、彼のソルボンヌでの最初の講義となった。ヨーロッパ諸国に比べて公教育が教権から分離する時期が比較的早かったフランスは、19世紀中頃から20世紀中頃まで続いた第三共和制の時代において、憲法の制定などにより、公教育と宗教の分離を制度として実現した。そのような揺れる時代の中で、デュルケムがソルボンヌの学生たちに道徳を説いたのが、講義「教育の科学」であった。その語り口のせいか、「道徳教育論」の文章からは彼の言葉が聞こえてくるようであり、その講義室に溢れんばかりの熱意を、私は感じずにはいられない。


 デュルケムはこの著作の中で、道徳というものを歴史学社会学の観点から考察し、その諸要素を明らかにしている。その詳細な考察により、彼は道徳によって人間(特に児童)に植え付けるべき道徳を示し、その目的までをも提示した。

 

 彼は、道徳性には三個の要素があるとした。第一要素として規律の精神を、第二要素として社会集団への愛着を、第三要素として意志の自律性、という具合である。これをひとつひとつ見ていきたいのだが、最初に驚くべきかつ重要な事実として、道徳とは規律の集合であるということを確認する。所属する社会によって、社会性を反映した非個人的な規律としての道徳が存在する。よって、道徳は法律に近い性格を持っているのである。しかし、法律と異なり拘束力を持たない道徳が規律として存在しうる理由は何であろうか。彼は、規律の裏には尊敬に値し個人を超越する権威が存在し、この権威によって規律としての道徳は守られるのであると考えた。社会全体が宗教に支配されていた時代には、宗教こそ道徳であり、神が権威の役割をしていた。今、宗教に頼らない道徳が誕生したのだが、その権威は何であろうかという問題が出てくる。

 デュルケムは、その権威を社会とした。社会は、個人の集合であるが、個人間の相互作用により、単なる個人の加算的集合よりも強い力を持つ集団として社会は存在している。よって、社会が権威となりうるのである。ここで、再び疑問が生じるのだが、どうして個人は社会という権威のもとに道徳という規則に従うのだろうか。一見すると、個人にはあまり利益がなく、行動や思想に制限を受けるだけに思われ、そのような規則に従うことは矛盾ではないのか。また、人はしばしば道徳性を持って自らを犠牲にすることを選択するが、これは規則としての道徳の過ぎた抑圧なのではないか。しかし、デュルケムはこの疑問にも答えることができる。彼は言う。個人の人格の形成において、抑圧ないしは禁止の能力を身につけなければ、それは幼児や原始人と同じであり、道徳はそのような人格の形成に必要な規則性を与えるのだと。個人の人格の良き部分は社会の事物の影響により育まれるため、個人の中には社会性が大きく横たわっているのだと。利己主義に走り、自己から社会性を引き剥がそうとしても、それは失敗に終わるだろうと。そして、そのような社会と自己の一体化したような愛着の状態が、時に自己犠牲という形で現れることがあるのだと。

 一見矛盾しているようであるが、この発言は的を射ている。つまり、規則としての道徳に従うことは抑圧に繋がるのではないかと一見思われるが、自己を一定の範囲内に収めることは個人の本性自身によって要求されているために、実は道徳に従わなければ従わないほど自己を破滅に追い込むことになる。また、自己犠牲にまで達するような社会への愛着は自己を放棄することに繋がるように一見思われるが、個人は社会性の享受により多くの幸福を得ているので、実は社会集団への愛着によってのみ真に個人は個人としていられるのである。それを止めれば、人はたちまち自殺に近づくことになる。これが、道徳の第二要素である。

 第三要素として意志の自律性が挙げられているが、これは第一・第二要素よりもメタな概念である。規則としての道徳への従順や社会集団への愛着を行った個人は、ふと自身の自律性が失われているのではないかと感じる。しかし、それも一見矛盾のように見えて、実はそうではない。ちょうど科学を知ることによって外部に存在する自然の一部を把握し、その知識を自己の内部に保ち理解し常に更新することによって、外部より確立された自律性を得るのと同様に、道徳の規則に従い社会集団への愛着を持つとき、個人は自己の行為の理由についてできるかぎり明確で、かつ完全な意識をもつことで、道徳を自己の内部に整理して置くことが可能となり、今後公衆の意識が道徳的なすべての存在に対して要求するであろう自律性を持つことができるのである。

 道徳とはこのように、いくつかの要素からなる。一見矛盾しているように思われて、実はそうではないという、相容れない要素を内に含むことができる道徳の豊かさと複雑さには、目を見張るものがある。社会とはひとりの人間のようなもので、その体は道徳の規則性を、その細胞は個人を、その血は個人の社会への愛着を表す。細胞が更新されようとほとんど変わらない形を残す。そして、その大きな社会という個人自体も時代の必要性に応じて常に変容してくのだ。

 よって、人間(児童)の道徳的陶冶には、教室だけではなく社会の中で道徳教育が行われるということを忘れてはいけないのである。そして、先述したような道徳の要素を彼らが得ることを目的として、道徳教育は行われるのである。


 デュルケムのこの道徳モデルには、賛同意見だけではなく多くの批判が存在する。特に道徳教育を科学的に見る視点には、議論の余地があるのかもしれない。しかし……

 

 しかし、私は、宗教という強大な権威の鎖を引きちぎらんとしたデュルケムのその熱意を感じた。彼の、体の芯から湧き上がるような声を、聞いた気がした。内容よりも、私はその声を大切にしたいと思う。

 

 中世のヨーロッパと比べれば、現在の日本は宗教から解放されている。では、現在の日本社会は、道徳性を保持するための権威となることができているのだろうか。日本では毎年2, 3万人が自殺をするのだ。

 

 義務教育の時点で、自殺の種を蒔いてしまってはいないだろうか。教育の本分は生徒の自己実現であるという教育原理の解釈が、学歴社会の影によって歪められているように感じる。受験に合格するための勉強に意味はあるのだろうか。その勉強の陰で、大事な何かがスポイルされる。愛着は失われる。生きること以上に、大切なことがあるのだろうか。選抜の過程としての学校は、社会の分業制度を成り立たせるために必要であるということは理解できる。しかしながら、そもそも社会とは構成員の幸福を目指すものではなかったのか。社会のための選抜が社会の最大の目的を阻害するという事態は、紛れもなく本末転倒である。日本社会という謎の権威が暴走している。そのことに、誰か気づいて。


 今、世界では、キーコンピテンシーが定義され、多様な価値観の受容が叫ばれている。人工知能の能力が人間を凌駕する時代に、人々は人間らしい教育原理を思い出しつつある。その中で、日本はどこへ向かうのだろうか。偽りの平和の中でいつの間にか錆びた鎖を、もう一度解かなければならない時は近い。デュルケムのあげた声を、次は私たちがあげるのである。