君たちはどう生きるか

 君たちはどう生きるか。中学生や高校生に向けて、その問いを発し続けている本があります。吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波文庫, 1982)です。この本は、1930年代に、少年少女に倫理を教えるために執筆されたのですが、読みやすい物語調と深いメッセージ性が受け、今なお毎年増刷されています。中学生のコペル君と、コペル君の叔父さんの対話の中で、そっと叔父さんがコペル君に倫理的示唆を与えます。とても面白く、読みやすい本です。

 この本が執筆されて約80年、社会状況は激しく変化しました。その変化の中で、倫理観も変化しつつあることを感じます。以下にお見せする駄文は、『君たちはどう生きるか』の世界の時を進め、浦川君の家でたい焼きを食べてしまった「文ちゃん」が「文じい」となり、コペル君の孫である「先生」や先生の生徒に、倫理的示唆を与えるという形で、執筆されました。お暇な方はぜひ読んでみてください。 

 

  

君たちはどう生きるか2015 ―― 学ぶ意味と生きる意味 ―― 

 文じいは、この町では一番の長生きです。歳は八十五を越えています。文じいは、若い頃には相模屋というお豆腐屋さんをやっていましたが、今はそのお豆腐屋さんは、文じいの息子さんとお孫さんがきりもりしています。それでも、文じいは毎日、店の中にあるゆったりとしたいすに座って、お客さんとお話をしています。いつもお客さんに面白いお話をしてくれるので、文じいはこの街ではちょっとした人気者です。
 今年の夏はとても暑く、連日猛暑が続いています。今日も昼間は気温が上がるそうですが、文じいは朝から冷房の効いた店内で、涼しげにいつものいすに座っています。しかし、今日はいつもより少し嬉しそうです。
 「親父、そんなにあの子たちが来るのが嬉しいかい。」
 笑顔でそう尋ねた息子さんに、文じいもまた笑顔で答えます。
 「ああ、嬉しいさ!若い子たちから、元気をもらえるんだもの。」
 あの子たちというのは、近所にある高校の職場体験プログラムの一環で、このお店に来ることになった高校二年生の生徒さんたちのことです。相模屋は、毎年、職業体験プログラムの生徒さんを数人受け入れています。今年は、3人の生徒さんが、相模屋にやってくるようです。
 「こんにちは!」
 いきなり店内に元気な声が響きました。どうやら今年の生徒さんたちがやって来たようです。
 「今井祐樹と申します!」
 「斉藤美里と申します!」
 「新井智治です!よろしくお願いします!」
 あふれんばかりの若々しさに、文じいはさらに笑顔になりました。
 「いらっしゃい、こちらへおあがり。」
 文じいは嬉しそうに、店の奥へと生徒さんたちを案内しました。奥では、息子さんとお孫さんがお茶を用意して待っています。生徒さんたちの引率として、先生も来ていました。背が小さく、笑顔が素敵な先生です。
 「龍山高等学校の本田と申します。三日間、お世話になります!」
 「元気がいいじゃあないか!よろしい!」
 文じいは無邪気ぶってそう答えました。そして、少し首をひねらせました。不思議なことなのですが、文じいは、いつかどこかで、本田先生に会ったことがある気がしたのです。しかし、当然そんなはずはありません。
 とにもかくにも、息子さんとお孫さんは、店の奥で生徒さんたちと先生に、職業体験の説明を始めました。説明が一通り終わったところで、生徒さんたちはさっそくエプロンと三角巾をつけて、お豆腐屋さん体験の始まりです。三人は、最初は緊張しているようでしたが、息子さんの気さくな態度のおかげで、少し気持ちが楽になったようです。

 十一時になると、息子さんはお店を開きました。文じいは、いつもどおりいすに座ってお客さんとお話をしていますが、生徒さんたちのことが気になって仕方ありません。しきりに、生徒さんたちのほうをちらちらと見て、大丈夫かいと声をかけます。その度に、親父はいつも通りにしていてくれと息子さんが言うので、文じいははいはいと二つ返事をして、またいつもの席へ戻るのでした。


 その晩、生徒さんたちと先生、それに文じい、息子さん、お孫さんは、みんなで一緒に晩ご飯を食べました。料理はお孫さんが作ったのですが、どれもおいしく、特に相模屋の豆腐を使った豆腐ハンバーグと高野豆腐は絶品のようで、生徒さんたちもとてもおいしそうにしていました。あらかたみんなが食べ終わると、ここぞとばかりに文じいが生徒さんに話しかけます。
 「君たち、職業体験でここに来ているわけだが、なにか将来やりたいことはあるのかい。」
 三人は難しい顔をして考えましたが、少しの後、新井君がはきはきと言いました。
 「僕は、公務員になりたいです!結婚して家族ができたときに、毎日定時に帰って、家族と一緒にいる時間を増やしたいからです!」
 「ほう。家族を大切にしたいってことだねえ。」
 文じいは、うんうんとうなずきました。
 「お二人さんはどうだい。」
 今井君と美里さんは顔を見合わせましたが、美里さんが先に口を開きました。
 「私は、将来結婚できたら、それだけでいいかなあ。素敵な旦那さんと、幸せな家庭を築きたいんです!」
 文じいはまた、うんうんとうなずき、笑って見せました。
 「君はどうだね、今井君。夢はあるかい。」
 今井君は、ひとり残ってしまい、どぎまぎしています。
 「僕は……」
 しばらく、沈黙が続きました。たまに新井君と美里さんが心配そうな目を向けますが、今井君はじっと宙の一点を見つめたまま、何かを考えています。どれぐらいたった頃でしょうか、今井くんが重い口を開きました。
 「僕は、まだ何になりたいとか、よく分かりません。なりたいものもないし、好きなこともあまりない。なので、とりあえず大学に行って、大学に行ってから色々考えてみたいんです!」
 今井君は、思い切ったような口ぶりで、語気を強めて言いました。
 「ほうほう。そうかい。将来のことを考えるなんて、難しいことだよねえ。」
 文じいは、今井君にほほえみました。しかし、今井君はまだ、難しい顔をして下を向いています。
 「文じいさんは、僕らぐらいの時、将来の夢は何だったんですか。」
 今井君は下を向いたまま、でも、はっきりとした口調でいいました。文じいは、何かを思い出すように遠くのほうを見やり、眉をひそめました。
 「僕が君たちぐらいの時はねえ、大変な時代だったんだ。戦争が終わって、間もなかった。戦争に負けてしまったところから、頑張って力を取り戻そうとする、激動の時代だった。それが、数年すると、だんだん景気が良くなってきて、明るい時代になってきた。色んな人が頑張ったんだよ。学生は、学校で懸命に勉強した。学校の先生が怖かったからってだけじゃあない。学校の出来で、将来が決まってしまうような仕組みになっていたから、みいんな懸命に勉学に励んだんだ。これは今と同じだねえ。ただ、僕は劣等生だった。僕は豆腐屋さんを継ぐって決めていたから。小さい頃から、豆腐屋さんになるって決めていて、毎日勉強よりも店の手伝いをしていたんだよ。」
 「他に、やりたいことはなかったんですか。」
 今井君が、まっすぐ文じいの目を見て、言いました。文じいは、また口調を改めました。
 「あったさ!僕の兄の同級に、面白い人がいたんだ。彼はみんなにコペル君と呼ばれていた。コペル君は何度か、いや何十度か、うちに来てくれて、彼はその度に、僕に面白い話を聞かせてくれた。この世界のこと。勇ましい英雄のこと。人間のつながりのこと。僕はそれを聞いて、もっとこの世界について、そして人間について、学びたい、考えたいと思ったんだ。ただ、この店を続けていくためには、僕が店を継ぐしかなかったから、僕は学校で学ぶのをやめてしまったんだ!」
 「自分から学びたいと思うなんて、すごいや。僕なんて、勉強が嫌いで嫌いで……」
 新井くんは、渋い顔をしています。
 「ちょっと話題を変えようじゃあないか。ときに、君たちは何のために高校に通っているんだい。」
 「みんな通っているからかなあ。」
 美里さんが、顎に人差し指を当てながら答えます。
 「高校行かない人なんてめったにいないし、女子高生は憧れだったし!かわいい制服を着て、勉強もして、恋もして、行事とか頑張って、そういう生活が、今すごく楽しいんです!」
 美里さんの顔が、ぱあっと明るくなります。思わず、文じいも笑顔になりました。間を置かず、新井君が割って入りました。
 「高校に行って、勉強しないと、大学にいったり、就職したりできないからですかね。」
 「では、どうして勉強をしないといけないんだい。」
 「それは……」
 新井君は、文じいの質問に、どもりました。
 「分かりません!」
 そう言ったのは、今井君でした。今井君には珍しく、とても大きな、沈黙を一気に破るような声でした。
 「僕、分かりません!なんで、学校にいかなきゃいけないのか、なんで、勉強しなきゃいけないのか、分かりません!」
 「そうかい。」
 文じいはお茶を少しすすりました。
 「どうして学校に行かなければならないのか。そして、どうして勉強をしなければならないのか。それは、君たちが未熟だからなんだよ。君たちは、生まれてから、まだ十六年か十七年かしかたっていないじゃあないか。まだまだ君たちは弱く、未熟なんだ。しかし、未熟だということは、これからどんどん色んなものを吸収することができるってことなんだよ。つまり、未熟ってことはしなやかだということなんだ。君たちは、僕なんかよりも、たくさんのものを学び取り、吸収することができるんだ。君たちは、驚くほどたくさんの可能性を持っている。でも、その可能性ってのは、そのままじゃあ表に出てこない。様々なことを学び取り、可能性を表に引き出すことが必要だ。しかし、困ったことに、君たちひとりひとりが持っている可能性がどんなものなのか、誰にも分からない。だからねえ、今井君、新井君、美里さん……」
 文じいは生徒さんたちの目をひとりひとり順に見つめて、少し間を置いてから、続けました。
「君たちは、今というしなやかな時期に、本当にたくさんのことに触れ、たくさんのことを学び取ろうとするべきなのだ。学校の中での勉強はもちろん、学校以外のところでも、興味をひかれて、もっと知りたい、学びたいと思うことがあると思う。そこまで、学び取るんだ。それだけじゃあない。君たちは、学校の中でも外でも、失敗を犯すことがあるだろう。後悔してもしきれない、悔しい思いをすることがあるだろうねえ。その時に、その失敗から、何かしらを学ぶんだ。失敗は、学びの中で、一番大事なものなんだよ。だから、あらゆる場面で、失敗を恐れないこと。そうして、あらゆる場面で、学ぼうとするんだ。勉強とは、本来そういうものだ。そして、学校は君たちの勉強を大いに助けてくれるだろう。だから、君たちは学校に行くべきなんだ!学校に行って、思いきり勉強すべきなんだよ!」
生徒さんたちは、みんなはっとした顔をしています。文じいがこんなにも力強くお話をするのを、三人は初めて聞きました。
「僕、そんなことを考えたことがなかった。ただ、受験のために漠然と勉強していました。」
「私も同じ、先生に言われるから、授業があるから、何も自分で考えないで勉強していたのかもしれないなあ。」
 新井君と美里さんは、おのおの思っていたことを言いましたが、今井君は、まだ何か考え事をしているようです。文じいは、今井君が難しい顔をしていることに気がついていましたが、続けてお話をしました。
 「君たちには少し難しいかもしれないのだけれど、勉強をする意味は、もうひとつあるんだ。それを知るためには、時代の流れを大きな視点で見れなくちゃあいけない。科学の発展や、文学の研究など、僕たちの先の時代を生きていた人たちは、たくさんの学問や文化の成果を、僕たちに残してくれたんだ。例えば、君たちはあたりまえのようにスマートフォンを使っているけれど、スマートフォンの前にはガラパゴス携帯が、その前には固定電話やポケベルがあった。さらに前の時代には、文章ひとつよこすのに人の足を使わなければならなかったんだ。それが、今はメールで一瞬にして文章を送れるし、電話をすれば声だって聞ける。これは、先人がたくさんの努力をしてくれたからなんだよ。そして、また君たちも、この学問や文化を引き継ぎ、維持し、発展をさせて、次の世代まで無事に渡さなきゃあいけない。君たちも、この偉大な時代の流れの一部なんだ。君たちひとりひとりが、社会を支え、社会の一部となるべきだ。だから、君たちは学問や文化を維持し発展させていくために、勉強をしなければならないという使命があるんだ。今、君たちは高校生で、まだ社会の一員であるという自覚は芽生えていないかもしれない。しかし、君たちがもう少し大きくなった時まで、このことを覚えていてほしい。君たちが、立派に働くようになった時に、もう一度、このことについて考えてほしいんだ。」
 「だめだ!今考えなくちゃ、だめなんだ!」
 今井君が、仕切りを外した川の流れのごとく、怒鳴りました。これにはみんな驚きましたが、文じいはとても落ち着いた様子で、今井君のほうを見て、にっこりとほほえみました。
 「君の言うとおりだよ、今井くん。君たちは、今すぐにでも、このことについて考えるべきだ。しかし、君たちの友達の中で、このとこについて考えたことのある者は、ほとんどいないんじゃないかしら。中学を卒業したら、みんな行くからと高校に進学し、高校を卒業したら、漠然と大学に行く。そうして、流されていくだけの人は、自分が社会の一員であり、自分に社会を動かしていく使命があるなんて、まさか思うまい。だけど、本当のところは、君のように、高校生の時からこのことについて考えてほしいんだ。君たちには、重すぎることかもしれないと思って、さっきはああ言ったのだけど、今井君、君は間違っていない。むしろ、君が一番正しいんだよ!そして、ずっとそのことを真剣に考えていれば、きっと、必然的に、何かやりたいことが見つかるだろう。」
 その瞬間、今井君の顔から緊張や不安がさっと引いていったかと思えば、ぽっとかすかに頬が赤らみました。
 知らぬ間に夜が深くなり、生徒さんたちは相模屋の二階の部屋で眠りにつきました。息子さんとお孫さんは、明日の仕込みをしています。さきほどの部屋に残っているのは、文じいと先生だけです。文じいは、大好きな日本酒を先生に出しました。
 「今井君は、父親を早くに亡くしているんです。だから、精神的に大人になるのが早いんだと思うんです。」
 先生は、お酒で少し頬を赤らめつつ、真面目な顔で文じいに打ち明けました。
 「そうかい。まるで、まるで……」
 文じいは、懐かしく思って、先生を見つめました。
 「まるで、君のおじいさんに、そっくりじゃあないか!」
 先生ははっとしました。まさに、コペル君、つまり、本田潤一君は、先生のおじいさんだったのです。そして、文じいは一冊の古びたノートを先生に渡しました。
 「これは、君のおじいさんが持っていたノートブックなんだよ。コペル君が亡くなった時に、僕がもらったんだ。これを、君に託そう。君がもっていたほうが、いいと思うんだ。」
 先生は、何も言葉が出ません。ただ、受け取ったノートブックの表紙をひとなでした後に、そっと表紙を開きました。

 

  僕は、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中が来なければいけないと思います。人類は今まで進歩して来たのですから、きっと今にそういう世の中に行きつくだろうと思います。そして僕は、それに役立つような人間になりたいと思います。

 

 そして、文じいは先生に、一言だけ、言葉をかけたのです。―――

 

  君たちは、どう生きるか。

 

 

 

参考文献
  • 吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波文庫, 1982)
  • 梨木香歩『僕は、そして僕たちはどう生きるか』(岩波現代文庫, 2015)
  • 中内敏夫・竹内常一・中野光・藤岡貞彦『日本教育の戦後史』(三省堂, 1987)
  • 堀尾輝久『教育入門』(岩波書店, 1989)
  • 大田尭『教育とは何かを問いつづけて』(岩波書店, 1983)
  • 大多和直樹『高校生文化の社会学 : 生徒と学校の関係はどう変容したか』(有信堂, 2014