支え合いのコミュニティを目指して

 車の中でラジオを聴いた。エフエム秋田SCHOOL OF LOCK!だ。14歳の少女、ラジオネーム煮崩れ豆腐が電話に出た。彼女は、煮崩れ豆腐のように、ちょっとしたことでメンタルが崩れてしまうことが悩みだと語った。パーソナリティは、そんな煮崩れ豆腐が楽しいと思うことを尋ねた。彼女は、即興で歌を作って歌うことが好きだと語った。しばらくの後、車の中に、煮崩れ豆腐の歌声と、パーソナリティの「ありがとうね」という言葉と、大きな拍手と笑い声が響いた。深夜、名古屋の明るい街の中を走っている時だった。ひとりぼっちの車の中で、人間を感じた。久しぶりに、人間を感じた。

 

 人間はひとりで生きられるのだろうか。いつも考える。人間は、社会に属することで、多くの悩みを生じる。「それならば」と社会から出ようとしても、人間は社会に属さずに生きていくことはできない。人間はひとりで生きていくことはできない。この事実は、綺麗事ではなく、社会学や教育学の視点から言われていることである。

 しかし、今の時代、ひとりで生きていけると錯覚する人も多いだろう。一日中、誰とも会話せずに過ごすことだってできる。人間はひとりで生きていけるじゃないか。

 そうじゃない。そうじゃないんだよ。会うことは少ないかもしれないけれど、あなたには家族がいる。学生時代に様々なことを教えてくれた先生や、苦楽を共にした友人がいる。友人と呼べなくてもいい。一緒に教室にいただけでいい。あなたをいじめた奴でもいい。たまたまバイト先で一回一緒になったけれどあまり話さなかった人とか、ふと旅行に行っておいしい料理を出してくれた店主とか、そういうのでもいい。あるいは、亡くなった親戚でもいい。テレビに出ているタレントや俳優も、ラジオのパーソナリティも、そう。過去から未来にわたってあなたが関わるであろうすべての人間が、今この文章をひとり部屋の中で読んでいるあなたの社会性の一部となっている。定義の方法はいくつかあれ、私は社会性をそのようなものだと捉えている。私が先ほどから社会と述べているものは、あらゆる人間関係によって生じるネットワークのことである。几帳面でない人は、社会とはコミュニティのことであると思ってもらってよい。

 だから、あなたは生きた人間である限り、自分から社会性を引き剥がすことはできない。社会性を引き剥がそうとしたとき、人は生きることが困難な状態になる。私の友人は、すごく寂しい人で、彼は20歳になる直前に自殺した。私は、彼の残した日記を読んだ。彼が死ぬ前に見たものを見て、歩いたところを歩いて、彼が生きた日々を生きようとした。そして、分かった。彼の人生は寂しかった。埼玉県の高校でいじめにあって人間不信に陥った彼は、島へ飛んだ。自給自足の生活で、誰にも会わないし、誰とも話さない。きれいなはずの自然の風景が、寂しさを醸し出してきた。ポジティブな感情を引き起こすものが何もなかった。自分が生きているかどうかも、分からなくなった。彼は、社会性を完全に引き剥がすことに成功したわけではないが、自らが社会性を伴っていることを認識できなくなったのだと思った。

 よって、ここでは「人間は社会性を伴わずして、そして社会性を伴っていることを認識せずして、生きることができない」ということを第一の要請とする。これは、言い換えれば、「人間はひとりでは生きられないし、人間は孤独を感じながら生きることができない」ということである。

 

 そして、その要請を認めた上で、社会の構成員同士の支え合いは必要であるかを考えてみたい。これを考える際に重要なことは、自らが社会性を帯びていることを認識できない状態の危険さである。生きている人間は誰しも社会性を持つのに、それを自ら認識できなくなったとき、危険が近づく。その危険は、鬱という形で現れることもあるし、自殺という形で現れることもある。人間は誰しも、驚くほどいきなり、そのような状態になりうる。

 だから、というと安直かもしれないが、私は社会の構成員同士の支え合いは必要だと思う。社会への愛着を通じて社会性による幸福を享受する構成員が、社会を嫌い社会性を捨てようとしたとき、待ち受けるのは上記のような惨禍なのである。私は、支え合いの活動により、各構成員の社会への愛着を促進することができると考える。さらに、社会性を捨てようとして生きるのが困難な状態になっている方の手を掴み、こちらの世界に引き止めることができるのも、支え合いの活動なのである。

 ただ、社会を嫌わなくとも、悩みは生じてしまう。支え合いの活動を通して、そのような悩みを消化していくお手伝いをすることもできる。

 つまり、私は、社会における支え合いの活動について、次のふたつの機能があると考える。ひとつ目として、支え合いの活動は、構成員の社会への愛着を促進する。構成員が社会への愛着を感じ社会性を持ち続けることで、社会全体としてよく生きることができるようになる。ふたつ目として、社会性を認識するしないにかかわらず、構成員に悩みが生じた場合、支え合いの活動は彼らを手伝うことができる。このふたつの機能をもって、私は社会の構成員同士の支え合いは必要だと考える。そして、これらの支え合いの活動のふたつの機能の正当性を、第二の要請とする。

 

 私は、先に述べたふたつの要請を認めながら、大学においてピアサポート活動に取り組んでいこうと思う。これらの要請が正しかったのか、間違っていたのかは、数年後の本学の様子を見ると明らかになるだろう。